漫画みたいな貧乏生活
そこで、方向転換。学校で出会った先生のもとで個人的に音楽の勉強を続けつつ、バンドのメンバー募集の張り紙を見て連絡し、3人組バンドのボーカルについた。今度の目標は「世界中のフェスに呼ばれる存在になる」。それからは、練習とライブとアルバイトに明け暮れる、典型的なバンドマン、いや、バンドガールの生活になった。
バンドを続けるのは、お金がかかる。練習するにはスタジオを借りなければいけないし、ライブは集客のノルマがあって、チケットを買い取り、売りさばく必要がある。ノルマに達しなければ、もちろん自腹だ。いくらアルバイトをしても、お金が足りない。
この頃は、漫画のような貧乏生活を送っていた。先輩が当時60円のマクドナルドのハンバーガーを10個買ってくれた時には、「これで2週間は食っていける」と冷凍保存。日常食になっていたコンビニのお握りの味にも飽きて、渋谷にある中華料理屋のダクトの前にさりげなく立ち、そこから吐き出される中華の匂いをおかずにして、お握りを頬張ったこともある。もし僕の友人が同じことをしていると聞いたら、やはり60円のハンバーガーを10個プレゼントしただろう。
そこまでしてもバンドの人気が出てくれば報われるが、3年で空中分解。「ごめんなさい!」と頭を下げて、脱退した。
NHK前の激戦区で路上ライブに挑む
20歳で原点に回帰し、ソロ活動をスタート。
代々木公園の路上で弾き語りをするようになった。当時は路上からデビューしてブレイクしたシンガーソングライター、川嶋あいの影響もあり、路上ライブの全盛期。なかでも代々木公園のNHK前は激戦区で、10メートルに1人は歌っている人がいたという。
そこに乗り込んだ岡嶋さん。歌い始めると、多い時には40人前後の人が集まった。それは路上の観客の数としては多い方だったが、人気爆発とまではいかず、先の見えないモヤモヤが募っていた。
とはいえ、ただがむしゃらに歌っていたわけではない。渋谷の駅前交差点に面したツタヤで18歳の頃から6年間、アルバイトをしていた岡嶋さんは、スタッフ割引でCDを借りられるという特典をフル活用し、邦楽、洋楽問わず片っ端からCDを借りて聴いた。その数、千枚以上。耳の千本ノックのように、この時存分に浴びた歌詞とメロディーが、やがて彼女の血となり、肉となる。
20歳でソロ活動を始める前後から、音楽学校時代に出会った作曲家を通して「仮歌」の仕事をするようになった。作曲家が自分の曲をプレゼンする時、音だけだと伝わりにくいため、メロディー部分をシンガーが歌う。まだ正式な歌詞がついていない曲なので、仮の歌。
シンガーが歌いやすいように、仮の歌には仮の詞をつける。それが「仮詞」。仮歌と仮詞はセットで、作曲家が仮詞を書くこともあるが、シンガーが考えることも多い。岡嶋さんは作曲家から曲が届くと、いつもスタジオまで約1時間の移動時間で仮詞を考えて録音に臨んだ。