子どもなりの気遣いで、ひとりで耐えるべきではない怒りと悲しみを抱え込んでしまった。誰にもぶつけたり、吐き出すことができず、心の内には鋭い刃が突き刺さったままだった。
その孤独と痛みを和らげてくれるのが友人たちで、友人たちを歌で喜ばせることで、岡嶋さんは初めて自分の存在を肯定することができた。
ピアノに突っ伏して泣いた日々
自分を救ってくれた「歌」への想いは強烈で、中学3年生の時は「この道に進むしかない」と決意。進路を考える段階で、当時茨城に住んでいたにもかかわらず、プロも輩出している東京・表参道の音楽スクールに目を付けた。両親に「一般の高校に進学して、夜間にそこで学びたい」と訴えたところ、予想外の答えが返ってきた。
「自分が生きたい道を生きろ。でも、自由を与える代わりにサポートはしない」
想像もしなかった父親の言葉に混乱したものの、よく考えたら一理あるなと納得した。歌に人生を懸けようと決めたのに、なぜ高校で関係のない勉強をしなければならないのか。それにSPEEDは14歳でデビューしたんだから、私も早く動き出さなきゃ、17歳で武道館デビューだ! と中学生ならではの勢いで、自宅から片道2時間かけて、表参道に通うことに決めた。2000年の春だった。
それからしばらく後、岡嶋さんは学校のピアノに突っ伏して、毎日泣いていた。
自分の才能に限界を感じて……という訳ではなく、寂しくて、高校に進学しなかったことを後悔していたのだ。
17歳で中卒のフリーターに
「入学してから気づいたんですけど、授業が週に4回、1日2時間とか4時間しかないんですよ。だから早めに行って自主練をして、空いた時間にアルバイトをしていたけど、中学の同級生たちは高校生活を楽しんでいたから、私なにやってるんだろうって死ぬほど後悔して。クラスメートもほとんど20代で、同世代の友達が欲しいなって寂しかった」
それでも、やる気は失っていなかった。
作詞や作曲など音楽の基礎を学ぶ授業には真剣に取り組んだし、歌唱力も高く評価された。学校内のコンテストで特別賞を受賞し、グランプリ受賞者とともに中国との交流大使に選ばれて、中国の桂林で歌った。学校の卒業生で、プロとして活躍していたポップスデュオ「カズン」のライブの前座やバックコーラスの仕事ももらった。
しかし、「シンガーソングライターとしてグランプリを総なめして即デビュー」という野望が実現する気配はなく、焦りが募る。どうしたらいいんだろうと悩んでいるうちに2年が経ち、卒業の時を迎えた。17歳で武道館どころか、17歳で中卒のフリーターになってしまった。