平凡と俗人を嫌い、在学中にGHQへ
「学校にいてもつまらんから、マッカーサーの司令部へ行って、雇ってくれないかと頼んだんだ。採用試験があって、それで下士官や兵隊相手の通訳になった。
今の大蔵省(現・財務省)のビルは当時ファイナンスビルといってね。部屋代の節約と英語の勉強のために、僕はビルの地下に寝泊まりして軍曹や伍長の通訳を3年間やった。学校へは行かなかったが、成績は良かったよ。卒業のころには大蔵省から入省通知も来たくらいだ。
しかし、もし入っていたら、3日でクビだったな。公務員というのは前例のないことはやりたがらないが、僕は前例があることはやりたくないんだから。それにあそこにも変態性欲者がいるから、そいつらにクビにされたに決まってる」
平凡を嫌い、俗人を馬鹿にする傾向のある彼にとっては東大法学部は面白味のないところだったが、しかし、退学する気もなかった。
東大というパスポートの重みは現在とはまったく違った。自分自身に実力がつき、東大卒の肩書が必要なくなるまで、とりあえず持っていても悪くはないと計算したのだろう。
この辺り、ずる賢いとも表現できるし、また、懐の深い冷徹な考えを持つ大人とも形容できる。
そんな彼を変えていったのがGHQで触れたアメリカの文化だった。ハンバーガー、コンビーフ、コーラ、クリームソーダといった食文化、冷蔵庫、タイプライター、大きなアメ車といった豊かな物質文化、そしてキリスト教文化……。
敗戦を経験した23歳の藤田青年にとっては、じかに触れたアメリカとアメリカ人は魅力的だったのである。
商売の原点となったユダヤ人軍曹との出会い
東大在学中だった24歳のとき、通訳をやりながら、貿易商社「藤田商店」を設立する。主な仕事は米軍のPX(軍の売店)に雑貨や食料品を卸すことだった。
創業のきっかけはひとりのユダヤ人軍曹との出会いだった。ユダヤ人軍曹は機転の利く藤田をかわいがり、商売のコツを教えた。
卒業するころには藤田も「大企業に入って見栄を張るよりも金を儲ける」ことが人生の目標となっており、就職しようという気は消え失せていた。
「親しくしてたウイルキンソンという軍曹がいてね、下士官なのに将校よりいい服を着て、いい車に乗って、下北沢に大きな家を構えて、べっぴんの女まで囲ってた。他の兵隊に『どうしてだ?』と聞いたら、あいつはジューだから金貸しで儲けてる、と眉をひそめる。
僕は本人のところにジューってのは何だと聞きに行ったんだ。すると『ジューとはユダヤ人だ。俺たちは神に選ばれた優秀な民族で、ジェンタイルはバカだ』
ジェンタイルとはユダヤ人以外全員だから、僕ももちろんバカの中のひとりに入ってた(笑)」