もっともつらかった「決断の瞬間」

彼にとって、もっともつらかった年は1978年だ。彼は社員50名をリストラせざるを得なかった……。いまだにそれを忘れることができず、一生の悔いだと発言している。「これからは何があっても絶対にリストラはしない」と自分自身に言い聞かせている。

19歳だった大山が父親の後を継いで始めた会社、大山ブロー工業所は順調に成長し、75年には創業地の東大阪と宮城県のふたつに工場を構え、従業員は200名、売り上げは15億円近い中堅メーカーになっていた。当時の主力製品は農業用の育苗箱。それまで木製だった育苗箱をプラスチックに変えたのは彼の考えだった。

しかし……。

市場を席巻していた同社製育苗箱の値崩れが始まったのはオイルショック(1973年)から2年が過ぎたころだった。蓄えた資金は枯渇し、彼は金策に走る。手形のジャンプ(支払期日の延期依頼)を繰り返したが、ぬかるみに足を踏み入れたような状態で業績は元に戻らなかったのである。

そして、78年、彼は東大阪の工場を閉鎖し、生まれた町から宮城県へ移ることを決めた。創業時から家族同然と思い、仕事をしてきた従業員をリストラすることになったのだった。

会社を立て直すため「幹部は全情報を共有する」

「金融機関には『業態を変えるから会社存続に協力してください』と頭を下げた。しばらくは漬物用の樽や塩辛の容器などをこつこつ作る。売上高は半減したが、経費も減り毎年の赤字はなくなった。しかし、これではいつまでも借金は減らない」

リストラの翌年に始めたのは幹部研修会だ。四半期ごとに幹部と泊まりがけでさまざまなことを議論する機会を設けた。売り上げの増やし方、技術、設備、人材、組織……。大切だと考えたのは、とにかく経営者と幹部が全情報を共有し、共にレベルアップしていかなくてはならないということ。

大山は言う。

「一般に営業部門の幹部は営業の情報、生産部門の幹部は生産の情報に詳しいという偏りがあるため、個別最適で動きがちです。しかし、社内の全情報を与えれば、その幹部たちも全体最適で判断します。社長の目線が高いのは、社内の情報を独占しているからにすぎないのです」

幹部研修会は倒産の危機に直面していたアイリスオーヤマをよみがえらせる原動力になった。危機に際しては、全員がとにかく動いて販売力で売り上げを上げようとする会社が目に付く。しかし、大山は立ち止まって考えることを選んだ。そうして、同社はふたたび成長していく。