※本稿は、ドラゴン桜「一発逆転」プロジェクト&東大カルペ・ディエム『ドラゴン桜「一発逆転」の育て方』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
「ウチは貧乏だから…」家計を助けるためにも、東大へ
最低限の勉強だけして学園生活を過ごしていた布施川天馬さんが、東京大学を志望することになったのは高校2年生のときだ。
「担任で吹奏楽の顧問もしている教師から、進路指導室でこんなふうに言われたんです。『東大受けてみたら?』『生徒会長で、吹奏楽部も頑張っているお前が、東大に入ったらカッコいいぞ』って。『ああ、確かにカッコいいかもしれない!』ってその気になりました。『ドラゴン桜』の桜木先生のジェネリック版のようなちょっとビッグマウス気味の先生でしたが、自分に期待してくれていることを感じたし、その言葉はうれしかったですね」(天馬さん)
また、父親の栄次さんから「ウチは貧乏だから、大学行くなら国公立。家から通えるのは東大だけだ」と言われていたことで、東大を意識していたこともあった。第一、大学の名前をほとんど知らず、東大と早稲田大くらいしか知らなかった。
通っていた共栄学園高校は例年、MARCHや日東駒専といった大学へ数人程度の合格実績を残しているが、難関国公立大はまれであった。それでも天馬さんは迷わず東大を目指した。小さいときは気付かなかったが、高校くらいになると、自分の家がお金のやりくりが大変そうだということはうすうす感じていた。東大に進んで稼げる仕事に就けば、家計を助けられる。そんな意識もモチベーションとなった。
突然の大きな試練「母はがん、父は日雇い仕事」の崖っぷち
高校3年生の夏、部活を引退し、勉強に本腰を入れたとき自分がいかに東大から程遠いかを知り、「東大に行けるかも」と思っていた自信が少しずつ揺らいでいった。
「そもそも共栄学園は、東大受験に対応したカリキュラムになっていないんですね。カリキュラムにない学習を補う必要があるので、予備校の夏期講習に通いたいと思いましたけれど、そのためにお金を出してもらうのはうちには難しそうだと。それなら参考書を買って自分で取り組むしかないと思いました。あきらめようとは思わなかったですね。僕は昔からちょっと無理な状況を跳ね返す逆転が好きなんです。野球なら、最下位候補のチームが奇跡の逆転優勝をするのを応援するという感じです」(天馬さん)
そして高校3年の秋になり冒頭のような試練のときがくる。母親の美由紀さんは乳がんになり、父は立ち上げたばかりの会社がまだ軌道に乗らず派遣で日雇いの仕事を入れ仕事、天馬さんは受験と、親子3人それぞれが立ち向かうべき課題を抱えていたため、天馬さんは一人で戦っていた。入試当日も美由起さんは入院中、栄次さんは朝早くから仕事に向かい、天馬さんは自分で身支度を整え入試会場に向かった。
結果、東大が不合格だったばかりでなく、実力を測るために受けた私立大も落ちた。
「結局、僕は受験をナメていたんです。特待生の基準をキープしていたので、基本的なことはわかっているつもりでした。受験も、ある程度基本をやっておけば何とかなるだろうって。中高の6年間で完全に天狗になっていたんでしょうね」