70年代から「葬式仏教」批判は繰り返されている

開発チームが発表した「ブッダで悩みを解決、仏教対話AI『ブッダボット』の開発」によれば、ブッダボット開発の背景には、「日本における仏教離れ」があるそうだ(以下、ブッダボットについては同文章を参照)。「葬式仏教」と揶揄やゆされるような形で仏教が形骸化し、「人々の悩みや社会課題に回答できなくなったため」に、日本の仏教は衰退している。したがって、「仏教復興のためには、幸せになるための教え」(苦悩の除去)という仏教本来の役割を取り戻す必要がある――と開発チームは語っている。

しかし、日本人は仏教に「教え」を求めているのだろうか。ブッダボットとは、つきつめれば、特定の経典をマスターした機械だ。将棋であれば、定跡を完璧に記憶し、終盤になっても集中力を欠かないAIの力は無視できない。だが、苦悩の除去や幸福といった人間の実存に関わるような問題も定跡通りに解くことができるのだろうか。

拙著『宗教と日本人 葬式仏教からスピリチュアル文化まで』(中公新書)では、日本人と宗教の関わりを「信仰なき宗教」として分析した。そもそも日本人と宗教の関わりを信仰からとらえることに問題があるのではないか。以下、同書第2章「仏教の現代的役割――葬式仏教に何が求められているのか」も参照しながら考えてみたい。

まずは、仏教離れは本当に進んでいるのか、である。「葬式仏教」は日本仏教を批判する時に必ずと言ってよいほど使われる表現で、古くから用いられてきた。1975年には、インド人の仏教研究者ナレシ・マントリ(1929〜2009)による次のような日本仏教批判が新聞に掲載されている。

私のいう一般的な坊さんとは、修行も勉強もしないで、檀家や信者にすべて頼りっ放しの“職業僧”です。日本のお寺が、よくお葬式仏教だと指摘されるのは、生きている人たちの精神生活に坊さんが、お寺が、実はなんの役割も果たしていないからではないか。現に悩みながら生きている人たちをすっぽかしておいて、死んだ人だけに奉仕する宗教、お葬式仏教。これでは、若い世代の支持は得られないでしょう。(朝日新聞1975年12月15日東京朝刊)

実は「仏教離れ」が進んでいるとは言えない

日本の僧侶は、生きている人の悩みや問題に応えずに儀式だけを行っている。仕事として葬式を実践してはいるが、それが僧侶自身や信徒の信仰と結びついていない。典型的な葬式仏教批判であり、ブッダボットも同様の問題意識から開発されている。

それでは、葬式仏教が衰退の道をたどっているかといえば、そうでもない。一般社団法人・全日本冠婚葬祭互助協会の2016年の調査では、1970年代から2010年代にいたるまで、仏式葬儀が9割近くを占めている(「全互協 冠婚葬祭1万人アンケート」)。一方、神式やキリスト教式の葬儀は2〜4%台を推移している。近年では、遺骨を砕いて海や野山にまく散骨や樹木葬といった葬法や無宗教式の葬法も注目されているが、それらも1〜2%程度にすぎない。

マントリは、前述のインタビューで、このままでは葬式仏教は若い世代の支持を失うと述べているが、実際には、半世紀以上にわたって仏式葬儀の一強状態が続いている。少なくとも、葬儀に関しては、仏教離れは全く生じていないのである。