ダメ人間がかばい合って生きるコミュニティ
談志はこの粗忽長屋を「主観長屋」と捉え直して、「世の中主観の強い奴にはかなわない」という形で演じ切っていました。
まさに談志本人そのものが主観の強いキャラクターでしたから、その日頃の言動と掛け合わされる形でこの落語の登場人物たちがすべて談志の分身にすら思えてきて、味わいはさらに深くなっていったような気がしたものです。
私も、談志のかような遺産を少しでも受け継ごうと、先日地元の浦和圓蔵寺定例独演会では、もう一人の登場人物の留公を登場させてみましたが、さらにもう一人登場させて「顔は留公で右手が辰公だ」みたいな形にしようかと新たな工夫を思いつきました。
落語には、かように演じる度に、お客さんの感想や自分の思いなどからどんどん変更させてゆくことのできる柔軟性が備わっているのです。そんな対応力があったからこそ長い年月を経ても古典として残っているのかもしれません。
「昨日死んだことを知らないで長屋に戻ってきてしまった奴」と思い込む人だけではなく、「自分が死んでしまった」とさらに思い込む人がつながってさまざまな矛盾がさらに複層的に重なり合うところからこの噺は成立しています。
まさに「矛盾」がテーマなのです。
ここから幾分飛躍させてみます。
「粗忽な人間ばかりが住む長屋」から付けられた「粗忽長屋」というこの落語ですが、もしかしたら、「あまりに粗忽すぎてほかの場所では生きてゆくことができなかった者」たちがそこに集まったのかもしれません。世間一般の常識から逸脱したようなダメな人間同士が自然とそこに住み着いた長屋は見方を変えてみると、「常識的にはアウトな人たちでもかばい合って生きて行けるコミュニティ」としても捉えられないでしょうか。
そこにはきっと「矛盾」を断罪し合うような現代のギスギス感は皆無のような気がします。
無論落語なんて所詮フィクションですし、その設定にはエビデンス的な裏付けなどまったくないはずですが、でも、400年間にわたって支持されてきた世界観は、その時代を健気に生きる庶民たちの「願い」は反映され続けてきたはずです。「こんな長屋があったらおもしろいなあ」と。
矛盾を受け入れて、笑いに変えよう
現代文明は明治以降、矛盾を解決することで進歩してきました。代表的なのが江戸時代から固定されてきた身分制度という大きな矛盾です。
さまざまな矛盾は無論解消されなければなりませんが、最前から申し上げて来ているように矛盾は「笑いの原点」でもあります。「頭のいいはずのオトナたちが頭をひねって各家庭に二枚ずつマスクを配った」のも大きな矛盾かもしれませんが、「ああ、そんな知恵しか浮かばないのなら、自分たちがしっかりしなきゃダメだ」と国民に意識改革を促すに至ったのではと考えれば、おかしみのある良い矛盾なのかもしれません。
さまざまな矛盾を糾弾する前に、いったん受け入れてみたらいかがでしょうか。
実は、私、こんな矛盾だらけのコロナ禍で発生した空白の時間を、コツコツ埋めることで一気に書き上げた初小説が書籍化されます。『花は咲けども噺せども』(PHP文芸文庫)です。来月13日の発売です。コロナのおかげで書けた笑えて泣ける本です。お楽しみに。