「情」がなければ「理」も生きない

わたしが原理原則にこだわるのは、理に情が絡んできたときの判断基準を明確にしておきたいと思うからである。迷ったときには原理原則に立ち返って判断するのが、いちばん理にかなったことだという気がする。

どうしても人間には情が絡む。夏目漱石の『草枕』の冒頭に「情に棹させば流される」との一節があるが、情がここぞというときの判断を狂わせることもあるのだ。

わたしは情よりも理の人間だと思われているようだが、情によってどれほど失敗してきたかわからない。コーチには、情のかけ方が下手だと指摘されたこともある。

マウンドにグローブとボール
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たしかに、マウンドに立っている投手を勝たせたくて、交代が手遅れになったことが何度もあった。そんな経験を数多く積んだことで、勝負において情に流されることの怖さを思い知らされたというのもある。だからこそ、原理原則が大事なのであり、そこにこだわる。

かといって、すべて理詰めでいいというものでもない。原理原則の根底には、情がなければならないと思う。組織や人間関係において人を動かすには、情をくすぐったほうがいいのか、理にもとづいたほうがいいのかを問われることがあるが、どちらも必要だと答えるしかない。

理だけで人は動かない。情にもとづく理、理にもとづく情があってはじめて、チームも人間関係も円滑に機能させることができるのだ。

「叱る」と「褒める」は同じこと

わたしは、「叱る」と「褒める」は結果的に同じことだと思っている。それは、どちらも根っこに愛情があるからだ。

目の前にいる選手に成長してもらいたい、一流になってもらいたいという思いがあるから叱るし、褒める。「叱る」と「褒める」は正反対の行為ではあるが、その裏側にある思いは同じなのである。

気をつけなければならないのは、指導者が自分の立場や感情を優先することだ。

そこに、愛情は一切ない。自己の感情が先行すると、「叱る」は「怒る」になる。「褒める」は「おだてる」になる。本当の愛情は、厳しいだけでも、優しいだけでもないのである。

人を教え導くには、愛情がなければならない。愛情なくして信頼関係は生まれないし、信頼がなければ思いが相手に届くこともなく、組織そのものが成り立つこともない。

誰もが生まれながらに持っている理性や知性を尊重し、努力することの大切さに気づかせ、自分から学ぶようにさせること。それが、わたしの考える教育方針である。技術について一から手取り足取り教えるのは、けっして愛情ではない。

「情」を以って「知」を引き出し、「意」へと導く──。

その流れができてこそ、師弟、あるいは上司と部下、先輩と後輩、教える側と教えられる側の理想的な関係が築かれていくのである。