死生観を持ち、最後の瞬間に向き合う
結局、所定の時間から90分ほど押して、「これ以上はほんとうに無理」というタイミングで処置をはじめることになりました。
しかし、ぼくの混乱は解けないまま。どこか「作業」をおこなうように手早く処置をおこない、ご遺族の顔も直視できず、逃げるように退室して次の現場へ向かいました。
当然ながら次の現場にもおおきく遅れてしまい、葬儀会社は怒り心頭。もちろんクレームにつながり、社長や上司たちが菓子折を持って謝りに行く事態となったのです。
また、朝いちばんに来て夜はいちばん最後まで残る、休日も返上して働く「元社長の息子」が起こしたはじめてのミスに、失笑や嘲笑も聞こえてきました。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
あの90分はご遺族のためになったのか?
もっといいサポートができたんじゃないか?
声のかけ方で、もうすこし痛みをフォローできたんじゃないか?
そんなことを、ひたすら考えつづけました。
当時はこれといった答えは見つけることができませんでしたが、ひとつ痛感したのは「自分は知識や技術を過信していた」という事実です。納棺師としての技術を磨き、知識をアップデートしつづけていれば、一流になれると思っていた。
けれど自分に足りないのは、たしかな「死生観」。
どこまでいっても正解のないこの価値観を追究しなければ、一流の納棺師になどなれないと気づいたのです。
――仕事に対して、死に対して、生きることに対して、もっとちゃんと自分なりの軸を持とう。そうしなければ、亡くなった方にも、遺された方にも失礼だ。もっと考えよう。もっと向き合おう。
そう決めてから、ぼくの納棺師としてのスタンスはおおきく変わった気がします。それまでひたすら知識と技術を追究しようとしていた自分にとって、これがほんとうの意味で真剣に、「最後の時間」について考えはじめた瞬間だと言えるかもしれません。