料理を始め30年来客をもてなす

90年代には、海外生産の拡大も進んだ。もともと原材料の大半は輸入品で、素材の鮮度や味覚を封じ込めるには、産地の近くで冷凍するほうが望ましい。国際化は、早くからの課題で、韓国や台湾で合弁事業に乗り出していたが、「プラザ合意」以降の円高・ドル安の定着が、本格化させる。その先頭に立つ。

若いときからの市場分析、商品開発といった「マーケッター」の延長の仕事ではあったが、海外展開には様々な要素の検討が欠かせない。冷凍食品は海外の市場も大きく、現地販売や第三国への輸出も期待できるから、会社の将来をも左右する。自然、「事業家」としての眼や判断力が、鍛えられていく。

冷凍食品事業は、2000年10月に分社化された。食品部長から食品事業本部長へと古巣に戻っていたが、翌年に新会社の副社長となり、03年には社長にもなる。このときは、定番商品の冷凍餃子の改良を指揮した。鉄板離れをよくする物性の改良と柔らかく食べやすい皮にする味覚の改善で、大ヒットさせる。

本体の社長に就くまで、商品改良の最前線が続いた。前号で紹介した「永久改良」と「消費者第一」の姿勢は、そこで確立された。その間に得た答えは「差別化とは、似て非なるモノをつくること」だ。「ともかく考え、工夫し、やってみる。それでうまくいかなければ、やり直す。やり直してもダメなら、もう一度工夫してやり続ければいい」――「経営の神様」と言われた松下幸之助さんも、そう説いている。頷きたい。

薄いトレース用紙に「シェ・イトウ」と記した、自作のメニューがある。日付は88年10月23日。当時は、ときどき部下たちを自宅に招き、それぞれが材料を持ち込んで一品ずつつくり、お酒とともに味わって楽しんだ。料理は、30代前半に始めた。きっかけは、製品開発をするときにシェフや料理人と交流が生まれ、「自分も、やればできるのではないか」と思ったからだ。

店で食べて「おいしい」と思ったら、家で再現してみる。何度も手がけて、試行錯誤を重ねて磨きをかける。次第に、自分のレシピが増えていく。自宅に招いたお客にも、手料理を楽しんでもらう。奥さんは接待役、子どもたちにはアシスタントを頼んだ。「味の素の社長の楽しみが料理とは、企業イメージにピッタリだ」とほめられ、素直に喜んだ。

88年10月のメニューは、表紙に海とヨット、太陽と雲、そして人と魚が絡んだイラストをあしらった。2枚目には、お客の名と料理のメニュー。「Host&Hostess」として自分たち夫婦の名を書き、フランス料理のコースメニューと担当した部下の名が続く。みんなで飲むワインやコニャックの名も記した。でも、料理は、ただ楽しんだだけではない。そこから、何度も「食品は素材が大切だ」と思い知る。

社長になって3年目。多忙で、台所に立つ機会は減った。普段、帰宅して食べるのは「卵かけご飯」。炊きたてのご飯に全卵を乗せ、「味の素」と醤油、削り節、海苔をかけて食べる。これはこれで、おいしい。食品の奥深さをかみしめながら、味わっている。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)