弱者は「寄生」して器用に生きている

マメ科の植物には、根にこぶがあって、そこにバクテリアが住みついている。このバクテリアは、養分をマメから得ているが、その代わり空気中の窒素を固定して、植物が吸収できる硝酸塩の形に変えてやっている。しかし、バクテリアの寄生するこぶの数が多くなりすぎると、マメは枯死してしまう。むろん、その結果としてバクテリアも死んでしまう。

イソギンチャクやクラゲはトゲのある触角で生物を捕えて食べている。ところが、この触角の間で生活している小さな魚がいる。これらの魚は、触角によって捕えられず、逆に保護を受けている。そして、もっと大きな魚をおびき寄せる役目を担っている。サメの周囲を回遊しているパイロットフィッシュも、同じような関係にある。他の魚をおびき寄せる役目を担うと同時に、サメの保護を受け、かつ食べ残しの餌をもらっているのである。アフリカミツオシエという鳥は、ミツバチの巣を見つけては、それをアナグマに教えてやる。アナグマはミツバチの巣を襲って、それをバラバラに引き裂き、ミツバチを全滅させる。ミツオシエは、ミツバチの針がこわいので、それまで待っている。ハチが全滅してから出ていって、ゆっくりと巣の中の蜜ロウをちょうだいする。

動物と植物の間にも相互扶助の関係がある。チョウやミツバチが蜜を求めて花のところにやってくる。花のほうでは蜜を与える代わりに、花粉を昆虫に運んでもらって受精する。

歴史は悪徳で満ち満ちている

寄生よりは共生、片利共生よりは相利共生がよいなどといってもなんにもならない。人間のこざかしい倫理観を持ち込んでみたところで、得られるものは何もない。自然は人間が考えるよりもきびしい。倫理を持ち込むことができるのは、力関係が等しい場合に限られるのではないだろうか。

弱いものは弱いものなりに精いっぱい生きなければならない。そのためにあるものはずるさを学び、あるものは卑劣さを選び、あるものは図々しさを覚え、あるものはさもしくあらんとするのである。

大体、倫理的動物である人間にしてからが、種の異なる動物に対するときは、あらんかぎり卑劣な手を使って恥としない。あらゆる狩猟の仕方を見れば、それが例外なくだまし討ち、闇討ちに類するものであることがわかろう。

人間は自然界で弱い存在であったがゆえに、ありとある卑怯な手を使って種の存続をはかってきた。人間が種社会内では倫理を叫び出したのも、その習性が種内関係にまで持ち込まれたときに想定される事態が身の気もよだつものであることに気がついたがゆえかもしれない。しかし、いかに聖人君子たちが倫理を声高に叫ぼうとも、長年つちかわれてきたこの習性はおおいかくしうべくもなく、歴史は悪徳で満ち満ちている。