「夏の甲子園」消滅で57歳の監督は部員にどんな声をかけたか
「夏の全国大会(甲子園)はない」
5月20日、日本高校野球連盟は「夏の甲子園」を開かないことを決めた。茨城県の東洋大学付属牛久高校の硬式野球部監督・矢野和哉さん(58歳)は半ば覚悟していたこととはいえ、強い衝撃を受け、部員にどう声をかければいいかすぐに言葉が浮かばなかった。
「ウチは(同じ茨城でも)常総学院や土浦日大など甲子園の常連校とは違うし、積極的な選手勧誘もしていません。ほんまに(甲子園に)出られるようなレベルにも達していないけれど、それでも……悲しかったですね」
だが、一方で心の中ではこのように思ったそうだ。
「こんな大変な年に高校野球の監督ができているなんて、運命かもしれない」
高野連の公式アナウンスがあった日の野球部のリモートミーティング。制服をちゃんと着た丸刈りの部員たちは、監督からの「正式発表」をモニターの向こう側で何も言わずに聞いていた。約15分間、微動だにせず。
「子供たちも覚悟していたのか、泣く子はいませんでした。必死に平常心を保とうとしているように見えました」
矢野さんはミーティングの最後にこう言った。
「引き続き、みんなでシビれることをしていこう」
シビれること。これは、矢野さんが部員にいつも伝えている言葉だった。2年前の監督就任以降、練習後のミーティングのたびに「甲子園」の意味を問いかけてきた。
「あの球場でプレーすることだけが尊いのか。それだけを目標としていいのか」
志を共にする仲間とともに「それぞれが『いい野球』を追求」し、「何かを得よう」とすること、それ自体が尊いのではないか。そうした積み重ねこそが、矢野さん流の表現でいう「シビれる」なのだ。
「仲間とシビれることをする」それも甲子園だ
だから、コロナ禍に見舞われた春先から考えていた。もし、今夏の県大会がなくなっても例年の高3の引退時期である7月まではできる限りの練習をさせよう、公式戦はできなくても野球部内でチームを作り、リーグ戦をやらせよう、と。
加えて、高2が主体の新チームになっても希望する高3には練習参加させようとも考えた。例えば、バッティングピッチャーをやって後輩が成長すれば、自分の存在意義にもつながる。それも立派な「シビれる」ということだ。そうした縁の下の力持ち的な経験も長い人生の中ではきっと生きてくる。そう矢野さんは信じていた。
野球というスポーツをする以上、目標は公式戦で「勝つ」ことだが、それ以上に、日々の練習を通じてチーム全体で勝利を手にしようとするプロセスからはもっと大事なものをつかむことができる。それがもうひとつの「甲子園」なのではないか。