ヤクルトの元プロ投手である監督が43歳で迎えた人生の転換期

高校野球の監督としては少数派の「非勝利至上主義」の矢野さんだが、昔からこうした考えの持ち主ではなかった。現役時代は常にガチンコ勝負の世界の中で生き、価値があるのは「勝利」であるという思いが強かった。勝利は選手の評価になって、稼ぎにも直結する。現在とは、違った価値観の人生だったわけだ。

矢野監督は、ちょっと変わったプロフィールの持ち主だ。

1962年大阪生まれ。甲子園で優勝したこともある兵庫県の名門・報徳学園ではエース投手だった。惜しくも甲子園出場はかなわなかったが、社会人野球チームの神戸製鋼を経て、1986年にドラフト4位でプロ野球のヤクルトに入団した。

実働5年間でプロ通算成績は14勝27敗。ひじの故障に悩まされ、長期のリハビリを繰り返した。ヤクルトでの最後の年には、「選手として、人としての生き方・哲学を叩き込まれた」という故・野村克也監督から指導を受けた。その際のミーティングのノートは今も宝物だ。1993年には、台湾のプロ野球でプレーし、選手として引退した後は、ヤクルトに戻って1994年からスカウトを11年間務めた。気づけば、43歳になっていた。

東洋大牛久高校野球部の練習場
撮影=清水岳志
東洋大牛久高校野球部の練習場

年俸は最高1700万円だったが、退団後はそれがゼロに……

2005年、ヤクルトに入って以降の約20年間「プロ野球」で飯を食ってきた矢野さんに人生の大転機がやってくる。

同じヤクルト球団内とはいえ販売促進部という野球とは直接関係のない部に配属され、主に球団のCSR活動の仕事を担当した。本拠地のある東京・神宮球場周辺の地域社会・住民に貢献するという業務。地元の大人や子供と選手が交流する時間を設けるなどして、集客につなげられたらという狙いもあった。

その後、ヤクルトからも退団し、NPO「FIELD OF DREAMS」の理事長として青山での地域事業を継続。遊びやスポーツなどの体験活動を通じて、子供たちに生きる力を伝える新規事業を始めた。そこでは個人活動として野球塾も開いた。

42歳で人生の転機を迎えた矢野監督
撮影=清水岳志
43歳で人生の転機を迎えた矢野監督

長年「野球の表舞台」を歩んできた矢野さんにとって43歳からの慣れない裏方仕事は多くの苦労を伴ったが、大きな収穫もあったという。「人を育てること」の醍醐味に目覚めたのだ。

「選手時代の年俸は最高で約1700万円でした。ヤクルトを退団した後は、収入はゼロに等しい時期もありました。それでも、この頃のNPO活動や野球塾などで出会った子供たちを指導し、彼らが成長していく過程を見守ることにやりがいを感じましたし、その経験が今の自分の土台になっています」