野球を通して生徒たちの「生きる力」を育みたい

スポーツやイベントを通して、子供たちの感性を磨き、「向上心」「自覚」「思いやり」から形成されるスポーツマンシップの大切さを伝え、強い身体・精神、挫折感を持って社会で生き抜いていける力を養う。いわば「ライフスキル」という力を子供たちに授けたい。これが矢野さんの「セカンドキャリア」のメインテーマとなったのだ。

「野球版の『ノブリス・オブリージュ』とでも言えばいいんでしょうか。野球の頂点に立ったプロ野球関係者は、その経験などを社会に還元する義務があるんです」

練習メニューを組み立てる矢野監督
撮影=清水岳志
練習メニューを組み立てる矢野監督

そうした使命感は、NPO理事長の傍ら2016年に東洋大牛久高校野球部のコーチになり、2018年1月に監督に就任してからも全く変わることはない。

「甲子園常連校は、野球選手として早熟で完成された生徒たちで構成されたチームが多いです。でも、個々の人間としては未熟なところもあります。過去には甲子園優勝チームのキャプテンが強盗をしたということもあった。私たち指導者が大事にしなければならないのは、野球を通して生徒たちの『生きる力』を育むことなんです」

高校野球を終えた後の長い人生を歩む部員たちに送る「ナッジ」

6月、矢野さんを取材していた中で、部員への対処に関して「ナッジが大事だ」ということを何度か口にした。耳慣れない言葉に、「ナッジってなんですか?」と聞くと、こう答えた。

「周りが強制しなくても正しいことができるようにするための方法で、オランダのトイレのマークを使った生活様式が有名ですね」

オランダのスキポール空港では、男性用の便器の中央に小バエの絵を描くことで清掃費の大幅削減に成功した。利用者の男性が自然とハエを狙って用を足すようになり、汚れづらくなったからだ。つまり、「○○をするな」と制限するのではなく、選択の自由を残しつつ、望ましい方向に後押しする考え方。それが「ナッジ」だと、矢野さんは教えてくれた。

だから、練習している時も「ナッジ」だ。

「選手たちに外野フェンス沿いのランニングを真面目にさせる狙いで、私たち指導者は遠くで見守るのではなく、フェンスのポール横に立つんです。そうすると選手はポールからポールの間を丁寧に最後まで走るようになります」

朝もナッジだ。

「私が校門に立っていて、こちらから『おはよう』って声をかけていくと、だんだん生徒のほうから先に挨拶するようになるんです。返報性の法則ともいうんですかね」

矢野さんは元プロ野球選手で技術を教えるエキスパートだが、そうした枠には収まらない「ライフスキル」=生きる力も部員たちに教えてきたのだ。だから、コロナ禍で「夏の甲子園」という目標を失ったことも、視点を変えて、部員たちの心の教育につなげようとした。

「どんな時も東洋牛久野球部の目的は野球を通して、自発性と仲間との連帯感を養うことです。どうやったらうまくなれるか、子供たちが考えて、自発的に探究していく環境をつくる。自分の好奇心で獲得した知識は大人になっても忘れないはずです」

そしてもうひとつ矢野さんが常に考えているのが地域の活性化だ。

「高校生が近隣の小学生に野球を教えるシーンを夢見てます。TU(東洋大牛久)のマークがついた帽子を小学生がかぶっている姿です」

牛久を青山のように……。子供からお年寄りまでつながる街になっていってくれれば、と願っているという。

7月半ばに開かれた茨城県高野連主催の独自大会1回戦、東洋大牛久は1-5の劣勢から終盤に一気に5点を取って逆転勝ちした。2回戦は強豪の土浦日大に2-12で5回コールド負けだった。

それでも、泣いた選手はいなかったという。

「まだまだ実力はないという自己認識ができていて、でも、やり切った充実感があったんでしょうね。監督として1年生から教えて来た子。ライフスキルが浸透してきたのかな」

グラウンドのレフト後方にマテバシイの高木がある。矢野さんは野球部のシンボルの木だと思っている。それになぞらえて3年生に言葉を贈ったそうだ。

「小さなどんぐりもいつか大きな木になる。君たちもあの常緑広葉樹のようにどっしり悠々と大きくなるんやぞ」

妻は埼玉に残し、還暦目前の単身赴任生活は3年目になった。元プロ野球投手の監督、矢野さんは「シビれる野球」を探し続ける。そしてこの〝常陸の国〟から教え子を社会へ送り出す。

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