母の介護をすると決めたことに「一切悔いはない」
疲労と他の家族との葛藤に苦しむ山口さんをよそに、母親はデイサービスに通うようになって性格が明るくなった。
「母は認知症ですが、足腰はしっかりしているので、自分より年上の利用者の手伝いをして感謝されることがあり、うれしそうです。また、入浴後にネイルやお化粧をしてもらい、子どものように喜んでいます。今まで子育て一筋で、自分の美容は二の次だった母が、『やっと誰かに甘えられるときが来たのかな』と思うと、皮肉な話ですが、認知症になってよかったのかなとも感じます」
ただ、認知症の症状は進んでいる。最近は何を言っているのか分からず、いつもそばにいる山口さんでさえ聞き取れず、まともな会話もできない。トイレも着替えも一人では困難で、食欲も落ち、食事の仕方を忘れることも頻繁にある。それらすべてのフォローを山口さんひとりがしていたが、意外な“救世主”が現れた。
「けんか別れになった後、兄は私がマンションにいないタイミングを見計らって、母の食事を作りに来ていました。母の現状を目の当たりにするうちに、介護の大変さを実感したようで、最近はやっと、『お前じゃなきゃできないことだった。頭が上がらない』と、感謝の言葉のようなものをかけられました」
兄とのわだかまりは徐々になくなり、今では母親の施設入所を相談・検討する関係となっている。初めて「味方」の存在を得た山口さんはここまでの遠距離介護や同居介護をこう振り返った。
「これまで出会った介護関係者に、父健在、兄近居という状況で、『なぜあなたがそんなに全部背負うのか?』と聞かれることが多々あり、自分が親を看取るものという、私の認識がゆがんでいたのかもしれないと思うようになりました。それでも、母の介護をすると決めたことに、『一切悔いはない』と言い切れます。もしも母の介護にここまで向き合っていなかったら、後ろめたい気持ちが一生ついて回ったはず。介護の合間に母と温泉旅行もできましたし、自分なりの親孝行ができたことに感謝しています。しんどいことも多いですが、逃げずに向き合ったことで、いつか迎える母の葬儀でも、母の墓前でも、心から笑っていられると思います」
「『全部私がカタを付けてやる!』という使命感に燃えています」
山口さんは、2020年2月に復職を果たした。
「東京に帰る場所があると思うと頑張れました。上司は介護に理解がある人でとても救われましたし、月に1回ほど東京の職場の先輩や大学時代の仲間と会うことは、良い息抜きになりました」
「東京の居場所」が心の拠り所になった。
「これからも母が産んだ5人の子どもの代表として、育ててもらった恩はきっちり返していくつもりです。さらに言えば、父と母が両家の後を継ぐという問題に正面から向き合わず、約50年間もなあなあにしてきたツケもひっくるめて、『全部私がカタを付けてやる!』という使命感に燃えています」
山口さんは、「不幸にならずに介護を終えられる人が一人でも増えてほしい」という願いを込めて、認知症の母との日々―29歳で始まった介護録―というブログで自分の体験を発信している。