インドの慣習を変えた“率先垂範”

当社が進出した1980年代の初め頃は、まだカースト制度が残っていました。当初、幹部たちは生産現場のワーカーと同じ食堂で食事をするのを嫌がりました。幹部たちはワーカーが食堂で列を作って並んでいるのを事務所の2階から見下ろして、なんともいえないといった顔をしていましたよ。

これはもう率先垂範しかありません。私以下、日本人出張者、駐在員が同じ作業服を着て、ワーカーの列の最後尾に並び、自分の順番が来るまで待ちました。

私が毎月、インドへ行って、食堂の列に並ぶものだから、半年もしたら、上のカーストのマネジャークラスも黙ってワーカーの列の後ろにつくようになりました。今は、それが当たり前になりました。ですから、私は思うのです。インド人に限らず、人間の心はどこへ行っても変わらないですよ。変わったのは風習であり、慣習だと思います。

スズキの車がインドで売れているのは運がよかったことに尽きます。そして、私たちなりに、かなりな努力をしたこともよかったのかな、と。むろん、インドのみなさんの力添えがあったからこその話ですが。

短編映画に込めた思い「頑張れば豊かになれる」

これも進出したときの話になりますが、工場で生産を始める前、インド人の幹部、ワーカーに15分くらいの短編映画を見せました。シナリオは私が書いたものです。冒頭のシーンは戦後の焼け野原だった日本で、次に発展した日本の風景を映しました。日本も昔は貧しかったけれど、頑張れば豊かになることを知らせたかったのです。

スズキの鈴木修会長
スズキの鈴木修会長(撮影=上野英和)

年配の方以外はご存じないと思いますが、敗戦後の日本は貧困のどん底だったのです。1945年が敗戦。それから十数年間、日本人は、心のゆとりもなく、一様に精神的な行き詰まりを感じていました。

1950年、私は20歳で、ふるさとの下呂の成人式に出ました。下呂は岐阜県の山のなかの田舎です。町長さんがあのとき、こうおっしゃっていたのをよく覚えています。

「私たちは戦争に負けた。日本は廃墟になった。私はこれからも町長として頑張って日本経済の再建にまい進しなければならない。しかし、私はもう、60歳を過ぎている。頑張ることは頑張るけれど、これからの日本はみなさんのような若者に託さなければならない。私はあなたたちのような若い青年に、戦後の経済復興をお願いしたいと思う」

以来、私は、何とか日本を豊かにしたいと思い、働いてきました。そうして、日本はアメリカに追いつき追い越せでやってきたことで、成長したのです。敗戦後、私たちはずいぶんアメリカに助けられ、経済復興し、成長したのです。