私は一度、編集者に原稿内容とは全く逆のタイトルをつけられた

雑誌の入稿作業は戦場さながらである。編集者は徹夜するのがふつうである。だから私はてっきり忙しいために返信を忘れたのかと思ってそのまま放置していた。念を押して電話で督促しなかった私もいけなかった。

後日、私の自宅に送られてきた見本誌には「世界で跋扈する韓国の反日工作の実態」というような趣旨の、原稿内容とは全く逆の、右翼が手を叩いて喜びそうなタイトルがつけられていた。さすがに私は憤慨した。担当編集は「内容を読んだら古谷さんの言いたいことは読者に伝わると思います」という反応だったが、そんな問題ではない。記事の見出しは読者に対して決定的な印象を持たせる、とはすでに述べたが、この記事の見出しだけを読んで私の原稿趣旨を理解できる読者はいないだろう。この一件以来、当該雑誌への寄稿は謝絶して現在に至っている。

何かを批判する見出しは常識の範囲内にすべき

私が何を言いたいのかと言えば、何かを批判する記事の見出しは、常識の範囲内である程度事実に正確でなければならず、努めて恣意的であったり、扇情的であってはいけない、ということだ。さらにその記事の見出しを、執筆者本人が決定するのであればなおさらである。記事がSNSで広く拡散されることを考えれば、発言と称して括弧「」を付すのであれば、それは発言事実の引用でなければならず、記述の常識的ルールにすら反している。

冒頭の「方広寺鐘銘事件」に戻ろう。徳川家康は、前提的に豊臣方への批判・攻撃ありきで方広寺の「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘を問題視して開戦口実にした。はっきり言って戦争する際の大義名分としては雑さ極まりない。だが家康にとって方広寺の鐘銘は「たまたま」降ってわいたきっかけにすぎず、豊臣方への攻撃の口実にできれば別にそれが方広寺でなくても何でもよかったのである。