これら、2個自動車化軍団は、翌19日に、第15自動車化軍団長ヘルマン・ホート歩兵大将の麾下に入り、「ホート装甲集団」を形成した。

5月19日、ヒトラーを説得したハルダーは、ついに西方への突進を命じる。同日、第1装甲師団は、たちまちアミアンを占領した。第2装甲師団も、1日で90キロを走破、5月21日午前2時には、ソンム河口の町アブヴィルで英仏海峡に到達した。

鋼鉄の楔が敵戦線に打ち込まれ、連合軍は分断されたのだ。マンシュタインの構想が実現された。これによって、ベルギー軍、イギリス遠征軍、フランス第一・第7軍、さらに撃破された第9軍の残存部隊が、巨大な包囲網のなかに閉じ込められたのである。

ドイツ装甲部隊の側面に迫る脅威、英軍の反撃

先陣を切ったグデーリアンは、包囲された連合軍の補給源にして、最後の脱出口となっている英仏海峡の諸港を22日に攻撃すると決定し、麾下にあった3個装甲師団それぞれに目標を割り当てた。第1装甲師団はカレー、第2装甲師団はブーローニュ――そして、第10装甲師団がダンケルクを攻略するのだ。

このまま、グデーリアンの攻撃が発動されていたなら、連合軍は退路を失い、潰滅の憂き目に遭うはずであった。

ところが、5月21日、ドイツ装甲部隊の側面に脅威が生じる。イギリス軍が、ドイツ軍の対戦車砲では歯が立たない重装甲のマチルダⅡ型歩兵戦車を先頭にして、反撃に転じたのである。

矢おもてに立たされた第7装甲師団と武装SS「髑髏」自動車化歩兵師団は、一時潰走しかけたものの、陣頭に立ったロンメル第7装甲師団長は、有名な88ミリ高射砲(ドイツ軍では、口径表示にセンチを使用するため、正確には「八・八センチ高射砲」であるけれども、この兵器は世界的に「八八ミリ」で通称されている)を対戦車攻撃に使用し、英軍を撃退した。

英軍を撃退してもヒトラーは敏感に反応

かくのごとく、側背の危険は排除されたが、このアラス反撃は、ドイツ軍首脳部を動揺させた。かねて危惧されていた通り、装甲部隊がつくりあげた回廊の側面が強力な攻撃にさらされているものと判断したのだ。

ヒトラーは敏感に反応し、5月22日午前1時30分にA軍集団司令部に電話連絡を入れさせた上で、OKW長官ヴィルヘルム・カイテル上級大将(1938年11月1日進級)を派遣し、アラスの南北および西方を「投入可能なすべての快速部隊」で固めるように命じさせた。

グデーリアン麾下の諸師団も、この命令のあおりを食って、海峡諸港攻撃を24時間延期させられることになった。

続いて、攻撃部隊を半分の兵力に削減し、ダンケルクをめざしていた第10装甲師団を装甲集団予備として控置せよとの命令が下達させる。

グデーリアンとしては、絶好の攻撃目標を眼の前にして、切歯扼腕するばかりだった。