党派争いは朝鮮半島の「お家芸」

従来のやり方を守ろうとする清朝と西洋的なアプローチをする日本が、互いに疑心暗鬼になるなか、間に挟まれた朝鮮は内部で党派争いを始めました。これは朝鮮半島の「お家芸」と言えます。君主の下で執政をめぐる争いはどの国でもあることです。それが朝鮮の場合、科挙などの官僚制で文人優位の文化があるため、朱子学のイデオロギーが先行するような独特の党派争いを繰り返してきました。強い軍事力を持たなかった歴史もあり、党派が乱立し、外国勢力を引き入れて党派で争うというのが政治的特徴なのです。

日本と中国をめぐる韓国の歴史

現在の朝鮮半島が南北に分かれているのも同様の要因だと私は考えています。ソ連・中国と結びついた党派が北朝鮮で、アメリカと結びついた党派が韓国です。北朝鮮を建国した金日成や韓国で軍事クーデターを起こした朴正熙が独裁体制を敷いたのは、おそらくその反動ではないでしょうか。民主的にたくさんの党派が存在すると、党派間の争いでバラバラになります。それを抑えて国を強くしようと思うと、他党を力ずくで弾圧するしかありません。それだけに、強い軍事力を持つと党派を抑え込み、一党独裁に傾く習性がある、というのが私の見立てです。

明治期の日本が西洋化により軍事的脅威になったことを受けて、清朝も軍備の西洋化を進めるようになります。両国の競り合いの草刈り場となったのが朝鮮半島でした。

当時の朝鮮は「事大」の関係、つまり清朝の「属国」でありながら、独自な「交隣」関係をもって、内政や外交は「自主」だった。つまり「属国自主」であり、危ないときだけ清朝に助けてもらおうという考えでした。清朝も当初はそれを認めていましたが、日本の脅威を背景に、朝鮮に干渉するようになります。それを脅威と感じた朝鮮は、初めは日本、その後はアメリカなど、さまざまな外国勢力を引き入れる形で「自主」を守ろうとします。そして、「属国」として干渉を強める清朝に対し、日本が朝鮮の「自主」を旗印に掲げる形で、日清戦争が勃発したのです。

日清戦争に清朝が敗北すると、朝鮮はもう1つの隣国であり、日本に対抗できる大陸の勢力として、ロシアに助けを求めます。ロシアは同時期、朝鮮半島と隣接する満洲に進出していました。日本としては、ロシアに朝鮮半島まで獲られては日本列島が危ない。そこで、ロシアに「満洲に手を出さない代わりに、半島のことは一任してほしい」と交渉しました。しかし、ロシアは「満洲はすでにわれわれのものであり、半島はこれからの話だ」と受け入れず、立つ瀬のない日本はロシアに戦いを挑みました。それが日露戦争です。