30年続けた英語教育政策の間違いに誰も気づかない
【鳥飼】それ、冗談ではなく本当にそうなんですよ。衆議院議員の遠藤利明さんが、自民党の教育再生実行本部長のときに、「夜のパーティーとか、みんなでわいわいやっている場での会話」は大事なのに「悔しいことに英語で話せない」と発言していました。
ただ以前から、「使える英語」への要請は強かったんです。発端は1986年の臨時教育審議会第二次答申です。その後、経済界は一貫して政府に英語教育の改革を要請してきましたし、文科省はそれを受けて、1989年の学習指導要領改訂で英語教育の目的は「コミュニケーション」だと宣言して、「オーラル・コミュニケーション」という科目まで作りました。そして2003年の「英語が使える日本人」の育成を目指す5年間の行動計画を始めとして、「使える英語」「英語を話す力」を目指して「慢性的改革症候群」と呼びたいくらい頻繁に抜本的改革をやってきたんです。
30年も英語教育改革を必死にやってきて成果が上がっていないのだから、「話す力」を「英会話」だと考えて邁進してきた英語教育政策が間違っていたわけですが、誰もそうは考えないようです。まだ足りない、もっとやれ、大学入試でスピーキング力を測れば話せるようになるだろう、と民間業者に丸投げの共通テストまでやろうとしたわけです。国語と数学の記述式問題も含めて、今回の入試改革は無理だと最初から分かっていた人が、現場にも教育界にも多かったと思います。
あまり指摘されませんが、この一連の英語教育改革の非常に大きな問題点は、日本語との関係を希薄化させていることです。外国語の学習には母語が重要なのに、それをいっさい切り捨てようとしている。つまり小学校も中学校も高校も、英語は英語で学びましょう、とにかく話せるようになりましょう、という方針なんです。
「ペラペラ話す力」より「読む力」を測るべき
【齋藤】スピーキングに対するコンプレックスは、日本人全般にありますね。英語を「ペラペラ」に話せればカッコいい、たどたどしいジャパニーズ・イングリッシュでは恥ずかしいと。しかしそれは、大学入試で試すべき力なのか。
【鳥飼】本当にそのとおりです。ペラペラと話したい人はそういう努力をすればいい。それに大半の大学では、すでにスピーキングに力点を置いた英語教育になっています。
だから大学の入試選抜では、高校で学んだ基礎力、特に読む力を測るべきでしょう。あるいは個々の大学ごとに、「うちは特にスピーキングができる学生が欲しいから、民間業者のテストを利用したい」という判断はあり得ると思います。