武田信玄(1521~1573)
孫子の兵法を学び、巧みな人材登用と経済政策で甲斐、信濃、駿河を中心に統治。城下町の整備や河川の治水、新田開発や金山開発まで手掛けた。

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尊敬する歴史上の人物は誰ですかと聞かれたら、出身である山梨県を統治した武田信玄を筆頭に挙げます。地元では武田信玄と呼び捨てにしたら怒られるほどの郷土の英雄ですから、多くの人は“信玄公”と言います。

信玄公といえば、彼が旗印に掲げた「風林火山」が有名ですね。これは孫子の兵法書の第七篇である軍争篇「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」という一節からとられています。しかし、軍争篇には「難知如陰、動如雷震」という続きがある。この続きの2つのセンテンスを信玄公は知っていたはずなんです。合戦の場などにおける彼の行動からもそれは明らか。では、なぜ、旗に記さなかったか。いちばん重要なことが書いてあるセンテンスだったからだと私は思っているんです。

「難知如陰」の「陰」を、私は「情報」のことだと解釈しています。つまり、情報を探す難しさ、正しい情報を早くより多く見つけることの難しさ、その情報を分析してどんな答えを導くか。それがいちばん重要だと説いている。

「動如雷震」は、雷のように速く動けという意味です。最初の「疾きこと風のごとく」はearly(早き)という意味であり、「動くこと雷震のごとく」はfast(速き)。つまりタイミングをしっかり見極めて誰よりも速く行動するという意味だと思っているんです。