リーマンショックに東日本大震災

ザボンには金融関係のお客様が少なかったせいか、バブル崩壊の影響はさほど大きくありませんでした。しかし、08年のリーマンショックで日本経済も大打撃を受け、停滞が続くなか、東日本大震災が起きました。そして、原発事故によって日本中は自粛ムードに。夜の銀座の街も、完全に活気を失ってしまいました。いつも顔を出してくれていた先生たちの足も遠のき、ザボンには一流企業のお客様も多かったため、これは致命的でした。

78年にオープンした当時3坪のザボンに立つ、水口素子ママ(左)。
78年にオープンした当時3坪のザボンに立つ、水口素子ママ(左)。

私が暗くなると、女の子たちも暗くなり、お店も暗くなる。すると、ますますお客様は来なくなる。そこから3年、ザボンも三平も赤字が続きました。利益が出ないものだから、毎月、毎月、自分の懐からお金を出していくしかない。このままではくたばる前に、自分の老後資金まですべてなくなってしまうのではないかと思い悩みました。

ザボンも三平も、両方潰れてしまったらどうしようといつも考えるわけです。そんなときに、いつも親身になって相談に乗ってくれていた先生たちや恩人たちが、次々に亡くなっていきました。特に丸谷先生が亡くなられたときは、ひどく悲しみ憂いました。店を開いたきっかけでもありましたから。

とうとうストレスで大腸ガンを患ってしまいました。摘出手術は成功したものの、「しばらく店の仕事から離れないと、ストレスでガンが再発するかもしれない」とドクターストップがかかりました。店の顧問会計士にも、「どちらも厳しい状況なのだから、銀座か赤坂、どちらか手放しなさい」と言われ、情けなくなった。

毎月膨らんでゆく赤字を見るのが苦痛で、赤坂のビルは水道管が壊れたり、天井から水漏れしたり、老朽化も激しく、もうなにもかも嫌になってしまいました。すると、なんだか魔法にでもかかったかのように、店をやめたほうがいいんだと思い込むようになってしまった。偶然、三平を欲しがっていた方がいたので、タダ同然で譲り渡してしまったんです。それが、3年前のことです。

三平は私にとって思い入れのある店でした。看板は漫画家の久里洋二(91)さんが描いてくれ、詩人の大岡信(17年没)さんの書を店内に飾っていました。それに、「三平」の名付け親は丸谷先生です。

後になって考えてみると、やめる必要なんてなかった。もう少し頑張ればやれたものを、どうして私は簡単に手放してしまったのだろうと後悔の念に駆られました。丸谷先生たちの恩を私の一時の気の迷いで台なしにしてしまったような気がして、とにかく自分を恥じました。