「休ませる」という発想が問題だ

いったいなぜこうした問題が起きてしまうのか。

育児、さらにはジェンダーに関する話はいつも炎上を誘発する。今回も依頼を受け、真剣に悩んだが、学生時代から私が書いたものを読んでいるという担当編集者の熱意におされ、決断した。私一人が、生贄として炎に身を焦がすことで、世論が動くのであれば、喜んでその役を受け入れよう、と。猖獗したこの時代に、私はこの檄を叩きつける。

越後湯沢へ向かう新幹線の車内にて
越後湯沢へ向かう新幹線の車内にて(写真=筆者撮影)

私は「育休至上主義者」ではない。それではなぜ育休を論じるのか。それはいま日本が取り組むべきことは「休みやすい会社と社会にすること」だからだ。正規と非正規という極端な分化、さらにはフリーランスに代表される自由で不安定な働き方ではなく、「誰もが頑張るのではなく、ゆるく働くこともできる環境」をいかにつくるのかというのが課題だ。

さらには、「男性の育休取得義務化」というのは「自由に休む」のでなはく「休ませる」発想である。この休み方こそが、日本の特徴であり、問題だ。

シェイクスピアの『ハムレット』風に言うと、「自由に休むべきか、休ませるべきか」それが問題だ。祝日が国際比較しても多い一方で、有給消化率の低い現実などがそれを物語っている。もっとも、高付加価値な産業をつくることができなかった日本、人手不足の日本にとって、自由に休むこと自体、難しいのだが。

新しい父親像なるものがまだ不鮮明

「とるだけ育休」から脱却するために、会社、家庭、個人が取り組むべきことは、「父親を育てる」ということだと私は考えている。男性は父親として生まれるのではない。父親になるのだ。ただ、新しい父親像なるものがまだ不鮮明であるし、父親を育てる仕組みも不十分なのだが。

企業によっては、父親インターンのような制度を導入している例もある。子育てをしている様子を見学し、イメージを明確にするのだ。家庭においては、結婚する前から男女で役割分担について議論し、実践するべきだろう。

参考までに私の話をしよう。私が38歳、妻が37歳のときから妊活を始め、5年の歳月と絶大なる金額を投じて、娘を授かった。娘が生まれて、もともと担当していた料理、買い出し、ゴミ捨てなどの他に、保育園の送り迎え、遊び相手になること、病院などの送迎などすることが増えた。左系知識人として荒ぶっているときに「パパ『アンパンマン』の絵本読んで」と言われて脱力する機会も増えた。

無能だと言われればそれまでだが、仕事の時間を確保しにくいし、集中できない。だから、仕事を減らすことにした。