「デカルトは『我思う、ゆえに我あり』と言って、人間を考える主体であると定義しました。しかし、日本の今西錦司や西田幾多郎はそれが間違いであると言っています。今西は『我感ずる、ゆえに我あり』だと。つまり、頭だけでなく身体性を持って考える存在と捉えたんです。人間は頭だけでなく、身体で物事を感じ、判断することが多い」
「例えば人が汗をかく場合、私が暑いと思ったから汗をかくわけじゃなくて、身体が暑さに反応して汗をかくから、脳が暑いと思うわけです。人は最初に暑いと思って汗をかいているわけじゃないんです。それが生きている人間です。そこが人間とAIの違うところ。そういう身体性の重要さを、復活させなければいけないと思いますね」

西洋的ゼロサムの思想の行き詰まり

デカルトと今西や西田の間のこの立脚点の違いは、客観と主観の違いとも言いかえられるかもしれない。西洋哲学では、客観が重んじられ、その典型が数学だった。

「西田はそうは考えませんでした。主客は決して分かれるものではないと言ったんです。個というのは、すべて縁起の中で結ばれるものであり、取り出すことができない。ゆえに個は自律していないと言うんですよ。だから、自分の目から世界を見ることはできない。見ている自分を見ることができないから」
「主客合一、様々な視点で自分がその中に入ったような形で世界を認識するべきだと言っているんです。さらに西田哲学は西洋の排中律(注:論理の根本原理のひとつ。「いかなる命題も真か偽のいずれかである」という論理)ではなく、容中律(注:肯定でも否定でもないと同時に、肯定でも否定でもあるという論理)という考え方なんです」
「西洋的な自然科学はゼロサム(注:合計するとゼロになること。一方の利益が他方の損失になること)の思想なんですね。そして今の情報科学もゼロサムの思想を使っているでしょう。その排中律=ゼロサムの論理で世界を認識してきたわけですよ」
「だけど、容中律というのはゼロサムじゃないんですよ。是か否じゃなくて、両方是と見る考え方なんです。その容中律の論理が、ゼロサムで行き詰まっている現在には求められていると思いますね」

「主客合一で自然との調和を図るべき」

社会の基本原理が西洋思想に基づいていることが、現代における環境破壊にも結びついているのではないか――山極はそう考える。

「人間は環境を客観視したがゆえに、自らの手で環境をいくらでもつくり変えられると思ってしまった。それゆえに地球環境は破壊され、人間自体もその環境に侵されている。もしかすると主客を分けるという考え方は間違っていたんじゃないか。主客合一という考え方に則り、自然との調和を図るべきではないかと考えているんです」