情報処理の加速度的発展が「情緒」を失わせる

「それは曖昧さを排除し、すべてを情報化する行為ですよね。でも、そこでぽっかり抜け落ちてしまうものがあって、それが『情緒』なんです。わたしたちは何かを判断する際に、知能の部分と、感じるという情緒の部分を併せ持っていて、判断はどちらがやっているかというと、実は情緒の部分がやっていることが多いわけなんですよ」

事実、ACI(Animal-Computer Interaction/動物とコンピューターの相互作用)と呼ばれる研究分野では、コンピューターを使って人間と他の動物間のコミュニケーションを実現するための研究も行なわれている。情報技術は人と人の距離を縮めるばかりか、異種間のコミュニケーションすら実現しようとしているのだ。

しかし山極は「曖昧さ」を「情緒」と言い換えながら、その価値を強調する。

「たとえ相手が99パーセント間違っているとわかっていても、情緒の部分で人を許すこともありますよね。将来的にはAIにも情緒をわからせることができるようになるかもしれませんが、与えられた情報からのみ判断を下す現在のAIでは、こういう判断はできない。情報にならない情緒が重要なんです。世界は情報だけでできているわけではありませんから」

わからないものを向き合うことの意味

「情報化すれば、そのデータを解析して価値を与えることができる。価値化は目的に沿って行なわれますが、しかしそもそも地球や自然はなにか目的があって生まれているわけではないでしょう。だから、この世界には目的や価値といった判断軸で捉えられないもののほうが多いわけです」

曖昧さは、ここでは「わからなさ」とも言い換えられていたが、その価値とは何だろう。山極はそこに生命の本質を見るという。

「人間は、何かわからないものと向き合っていたいんです。他人のことはわからないからこそ、一緒に何かをしようという意欲が湧きます。相手のことが全てわかってしまったら、付き合ってもしょうがないわけです」
「わからないからこそ、知りたいと思う。AIもロボットも仲間にはならないのは、すべて外からわかってしまうから。生命の本質をもう一度人間のなかに認めないと、生きた社会はどんどん離れていってしまう気がします」

AIは西洋思想の「到達点」「臨界点」

AIは西洋思想のひとつの到達点であると同時に、ある種の臨界点を示しているのかもしれない。山極は自らが参加した、フランスで開催されたシンポジウムの話をしてくれた。そのシンポジウムのテーマは「Does Nature Think?」。人間は自ら考える存在と言われているが、はたして自然自身は考えるのか。西洋哲学の立脚点に立てば、「自然は考える」とはみなされていない。だからこそ、いまこの問いに挑むべきだという。