動く観客に作品が食らいついてくる

【宇野】そのときにポイントになっているのが、20世紀の映像文化、たとえば劇映画のように、作品の時間に人間を無理やり合わせていないことだと思う。チームラボの展示は、人間から能動的に没入しなくても、自由に動き回る僕らに対して作品側が食らいついてくるんだよね。これって、絵画がインタラクティブじゃないという問題に対する回答だと思う。猪子さんは以前、『モナ・リザ』を引用した名言を残していたじゃない?

【猪子】「『モナ・リザ』の前が混んでいて嫌なのは、絵画がインタラクティブじゃないから」ね。

©teamLab
『裏返った世界の、巨大!つながるブロックのまち』

【宇野】そう。ほかの鑑賞者の存在で作品が変化していくのなら、むしろ『モナ・リザ』の前は適度に混んでいればいい、という発想だったと思うのだけど、それは言ってみれば人間と人間との関係に対するアートとテクノロジーの介入なわけだ。他者の存在がむしろ世界を豊かにする状態をつくり上げている。

対して、これらの作品は人間と時間との関係に介入している。「これ、もう観たっけ?」と思いながらウロウロする、あのとき僕らは通常の空間感覚を喪失して、さらには時間の間隔も麻痺しているのだけど、この「迷い」こそが作品体験になっているわけだからね。

【猪子】そうそう、作品と自分の肉体の時間が自然と同調して、その境界がなくなってほしい。ただ、自分の肉体の時間と境界を感じにくい時間軸の世界をつくるわけだから、それってどこかで現実世界そのものになっていくんじゃないかな、とも思うんだけどね。

現代は「時間感覚」が世界を分割している

【宇野】何年か前、猪子さんが「21世紀に物理的な境界があるなんてありえない」と言っていたときから、このプロジェクトは始まっていたんじゃないかと思う。というのも現代って、モノが切断面や分割点になりにくい時代だと思うわけ。たとえば、工業社会においては、車やウォークマンを持っているかどうかで、その人のライフスタイルや世界の見え方はだいぶ違っていたはずなんだよ。

でも、今はどちらかというと、「Googleをどう使うか」とかのソフトウェアの影響力のほうが強くなってきている。そしてそれらがコントロールしているものは、究極的には人間の時間感覚だと思うんだよ。空いた時間をどう使うかとか、買い物に行く時間をAmazonで省略するとか。インターネットが出てきた瞬間に空間の重要性はぐっと下がったから。そんなふうに、今はモノという空間的なものよりも、時間のほうが世界を分割していると思うわけ。