物は言い様、パワーも言い様
「『縁結び』とは、ナラティブのひとつだと思うんです」
酒井嚴貴さんが続けた。ナラティブとは物語ること。言い方、語り方のことである。縁がどう結ばれるかということより、どう語られるかに注目すべきだと彼は指摘するのだ。例えば、講社員のひとりが、出雲大社に参拝した。出雲から帰って友人にこう言ったらしい。
「初めて出雲大社に行ってきたのよ。まあ、いいご縁があればと思って」
するとその友人の母親が「えっ、そんなに結婚したかったの?」と驚き、彼女の知人がひとりの男性を紹介してくれた。お見合いをしてみると「あ、なんかもしかしたらご縁があるかもしれない、みたいな感じになって」、家族の話をしているうちに、彼の母親の親友が実は彼女の親戚だということに気がついた。
さらに彼女の下宿先の大家さんと彼の母親が高校時代の先輩後輩だったことが判明。彼女は「ご縁のある人たちがこうやって、連れてきてくれたんだなーっていうのを、すごく感じました」とのことで、彼との結婚を決めたそうなのである。「ご縁」という言葉の使い方が、縁をたぐり寄せたのだ。
「話していれば、何かしら共通点ってあると思うんです。そこに『縁結び』というナラティブが入ることで、すべてがつながって感じられるようになる。そうなると一種の躍動感、スペシャル感を覚える。人生に意味や価値が付与されるんですね」
要するに、物は言いようなのだ。確かに「縁結び」という言葉によって、縁は結ばれるものになったような気もする。仏教の「縁」は原因を意味し、因果関係によって人を戒めるが、縁結びは双方が対等につながり、様々な関係を生むのである。
※本文中の旧字は一部、新字に改めました。