先進過ぎて理解が得られず、修理屋さんには嫌われ

わたしは大学に入った年、18歳でこの車を手に入れた。運転席に座ると、車内が「やけに広い」と感じたことを覚えている。

当時、車格が上のトヨタのコロナと同じかもしくはそれ以上の広さだったというから、広く感じたのも無理はなかった。

そして、車体が軽かったからスピードも出た。長い坂道を下っていると、どんどんスピードが出てきて、車体が押しつぶされているのではなく、浮上する感覚があった。そのまま空に飛びあがってしまうんじゃないかとも思ったくらいだ。運転する車ではなく、飛行機のように操縦する車がスバル1000だった。

それほどの名車だったけれど、しかし……、実際は思ったほどは売れなかった。

誰もが自家用車を手に入れるモータリゼーションの時代でもあったし、スバル360から乗り換えようとした客もいたので、決して惨敗ではなかった。

しかし、売れ行きではカローラ、サニーとは比較にならなかったのである。1967年、カローラが年間に16万台売れていたのに比べ、スバル1000は3万台から4万台といったところだった。

自動車評論家の徳大寺は『間違いだらけのクルマ選び』で、わざわざ1章分を費やして「スバル1000が売れなかったことが歴史を変えた」と記述している。

「スバル1000は、いくらほめてもほめ足りない素晴らしいクルマであった。しかし、このきわめて理想主義的な、名門中の名門であるアルファ・ロメオでさえ真似まねしたクルマは、あえなく三振ではないにしても、レフトフライぐらいに終わってしまった。多くのユーザーはスバルの先進性を理解できなかったし、また街の修理屋さんはこの面倒なクルマを、えらく嫌ったのである。かくしてスバル1000は登場してから五年後の一九七一年、あのみにくいレオーネ(注:後継車種)へとモデルチェンジされていくことになる」

「カローラより高い」ことが最大のネックだった

ここにあるように、売れなかった理由は当時、FFに慣れていなかったカーユーザーにとっては運転のフィーリングが、FR車とは微妙に違ったことが大きかった。

また、いくつもの先進技術はよかったけれど、修理に手間がかかったのである。修理工場にとってみればクラッチの交換でもエンジンをいちいち車から外すという、ひと手間が必要で、作業員はスバル1000がやってくると顔をしかめたという話もある。

そして何よりも値段だ。

カローラ、サニーよりも少し高かった。先進技術にかかった費用、そして、トヨタ、日産よりも部品代が高価になってしまったことで、車両価格は上がった。

スバル1000は高性能だけれども、それを高価格でしか販売できなかった。トヨタだったら、それこそお得意のトヨタ生産方式を活用して、少しでも価格を下げるのだが、富士重工にはそういった生産ノウハウがなかったのである。