結局、富士重工が選んだ道は業界ナンバー2、日産との業務提携だった。日産は軽自動車を作っていないし、航空機部門もない。なんといってもメインバンクは同じ興銀だ。興銀にとっても、三菱銀行が後ろに付いている三菱重工との縁組よりも、日産、富士重工の組み合わせが最上の策だったのである。

「もし、富士重工の車が売れなくなって、会社が傾けば日産が引き取ればいい」

興銀幹部はそこまで考えていたに違いない。

「商品力よりも販売力が弱かったから」

両社が業務提携した1968年は、乗用車は売れていたけれど、スバル360はそろそろ売れなくなっていた。

販売力が上がらなかったセールスマンの差

また、スバル1000もカローラ、サニーに比べたら、とてもヒットしたとは言えない販売成績を続けていた。

富士重工にとってはモータリゼーションに乗って、もっともっと売らなくてはならない時期だったけれど、販売面の弱さが出てしまったのである。

野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)

当時、富士重工の販売にいた人間は現場の弱さについてこう語る。

「ディーラーのセールスマンは給料の他に販売成績によって歩合が付きました。あの頃は富士重工だけでなく、どこの自動車会社も同じだった。

そうなると、優秀なセールスマンは売れる車を持っているディーラー、つまりカローラやサニーの販売店に行くわけです。

そこにいても、車を売れないセールスマンは今度、どこに行くかと言えば、三菱、富士重工、いすゞのディーラーに来るしかない。それでも、ディーラーではセールスマンの人数が足りないから、どこからか補充してこなければならない。

富士重工の場合は本社に入社した新入社員をディーラーに行かせて、そこで車を売らせる。だいたい、3年くらいはそんなことをさせました。

富士重工のような中堅以下の自動車会社が上位へ行けないようになっているのは商品力よりもむしろ販売力が弱かったからなのです」

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