「質の高い保育」で社会全体が得をする
育児を私的行為、私事であるとしている限り、保育は家庭で行われている育児の延長にすぎず、保育士は単なる親替わりにほかならないと見なされつづける。しかし、「質」の高い保育は、高度な知識・技能を有するプロフェッショナルである「質」の高い保育士・教師によって、そして「質」の高い施設環境でこそ可能なのである。そのような保育は、親による子育てとは別の意味を持つ、高度に専門化されたプロジェクトであり、それを運営・維持するためには、公金による下支えが不可欠である。家計負担だけに頼るわけにはいかないのである。
家計負担だけに依存すれば、豊かな家庭に生まれた子どもは「質」の高い保育を受けられるが、貧しい家庭に生まれた子どもは「質」の低い保育を受けざるをえなくなるか、あるいは保育そのものから排除されるか、のいずれかになる。一部の子どもを、「質」の高い保育から排除したことのコストは、社会全体が負わなければならないことは、「ペリー就学前プロジェクト」の追跡結果が何より雄弁に物語っていよう。
誰もが「育児や保育の当事者」
「公的事業としての子育て」を支える主権者として、私たち国民にはまず、保育に投入される公金のゆくえを追い、それが子どもたちにどのように還元されていくのか、その還元のされ方は適切なのか、つまり保育の「質」を高めるために資するのか、関心を向けていくことが求められる。子育てをしていようが、いまいが、である。
「無償化への便乗値上げ」問題の裏側には、事業者側に安易な「値上げ」を許す制度上の不備があり、その不備が、保育サービスの享受者、当事者としての保護者の怒りと不信を買った。ただ、ここまで述べてきたように、「質」の高い保育がもたらす便益を享受するのも、「質」の低い保育や保育からの排除がもたらすコストを負担するのも、日本社会の構成者としての国民全体である。
「便乗値上げ」について、保護者だけが怒っている、というのが現状である。しかし、「育児や保育は、社会共同の公的事業である」ということへの国民の認識が熟していけば、その「怒り」は決して保護者という当事者だけには留まらないだろう。私たち国民全てが、育児や保育の当事者であるし、未来もそうあり続けるはずだからである。ただ、そのことへの国民の意識は、いまだ十分に喚起されているとは言いがたい。私たち日本国民は、良い保育を喜び、そうでない保育に怒る、そういう成熟を遂げる画期を迎えている。