これまでも保育には公金が使われてきた
「無償化」を契機として、幼稚園や認可外保育施設で保育費用の「便乗値上げ」が行われていることが報じられた。厚生労働省と文部科学省は、少なくとも、全国33施設で起きていたと発表している。つまり、保護者負担額がゼロになる範囲内で、保育所・幼稚園・認定こども園などの保育施設が、保育費用を「値上げ」した(つまり、「値上げ」分を、保護者にではなく、国・地方自治体に請求した)というのである。
むろん、このこと自体は違法ではない。ところが、この「便乗値上げ」が、「無償化」で恩恵を受けるはずの保護者の反発を引き起こしているという。つまり、「何のための値上げなのか」「値上げをした分がどのように使われるのか」という、保護者の疑問、もっと言えば不信感をかき立てる事例が全国で報告されているのである。
今回の「無償化」は、全く図らずも、「保育のコストは、保護者による負担分だけではまかないきれない」という当然の事実を、白日の下に晒すことになった。「無償化」以前も、保護者の負担分(保育料と呼ぶ)以外にも、公金は注入されてきた。
例えば、東京都23区では、1日当たり11時間の保育を必要とする乳児(0歳児)の公定価格(法令上基準とされる必要経費の月額)は18万6000円ほどである。保護者の支払う保育料の月額は収入によって変動するが、世帯年収が800万円の場合、3万円ほどである。となると、都内の認可保育所が1カ月間、1人の乳児を保育した場合、そこには15万円以上の公金が投入されているということである。保護者ですら意識的でなかったこの事実を、子育て当事者意識のない国民が、どれほど知ってきたか。
「便乗値上げ」という違和感の正体
つまり、保育は、「無償化」されようがされまいが、公金が注入されてきた「公的事業」なのである。それを維持しているのは、他ならぬ私たち納税者としての国民である。自らが納税者として維持している公的事業が、どれだけのカネを、どのような目的に使い、その結果、どれだけの社会的利益・効果を生み出したのか。知りたいし、知らされるべきであるというのが、財政民主主義の主体としての国民のまっとうな感覚であろう。
「便乗値上げではないのか」という保護者の違和感は、公金の投入先である保育施設が、自らの事業の計画とその結果、つまり、「値上げ」された分だけ、保育の「質」が高まるのかについて、十分に説明責任を果たしえていない、という不信感の表れと言えるのではないか。現状は、確かにその「不信感」は、子育てに関する当事者意識を持つ「保護者」において局地的に見られるにすぎないが、これが今後も局地的現象にとどまり続けるとは考えにくい。