虚報の反省も見えぬまま、『新潮45』休刊事件へ

この対応に危機感を抱いた私は、このままでは週刊誌の多くが休刊になるかもしれないと、5月15日に上智大学の大教室を借りて、田原総一朗、佐野眞一、週刊誌編集長たちに来てもらって「週刊誌がなくなっていいのか」というシンポジウムを開いた。

佐野眞一は、「新潮は社会的な責任を全く果たしていない」「虚報の責任という意味では新潮が『実行犯』」「いずれ休刊、廃刊もあり得る」などと批判した。

多くのメディアと大勢の人たちが来てくれた。その時のことをまとめた『週刊誌は死なず』(朝日新書)を出版した。

この時のA編集長は役員でもあった。編集長職から更迭はされたが、役員職はそのままだったと記憶している。こうした曖昧なけじめのつけ方が、新潮社を内部からむしばみ、今日に至っているのではないのか。

そして、2018年に『新潮45』休刊“事件”が起こるのである。

発端は『新潮45』8月号で杉田水脈みお自民党衆院議員が書いた、「(LGBTの人は)彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」という一文だった。

これに対して多くの批判が寄せられたが、『新潮45』は次号で、開き直ったかのような、「特別企画 そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」を掲載して、火に油を注いだのである。

中でも小川榮太郎の記事がさらに批判を呼び、作家や文化人、書店、読者が次々とネット上で声を上げ、事態は新潮社本社前での抗議行動にまで発展した。この時出した佐藤隆信社長の「見解」も、傷ついた当事者のことを思う言葉がないなどの批判を受けた。

社内からも批判の火の手が上がり、結局、新潮社は9月21日に佐藤社長が談話を発表して謝罪し、休刊を発表したのである。

皇室への厳しい論調がエスカレートしていないか

ここでも露呈したのは、部数増のためなら手段を選ばない編集部の疲弊ぶりと、社長を含めた首脳陣たちの認識の甘さであった。

大手といわれる講談社、小学館もオーナー企業である。オーナー企業の良さはもちろんあるが、弱点は、社長一強のため、周りをイエスマンたちで固める側近政治になりやすいことである。耳障りな話は、社長まで届かないことが多い。

もう一つ私が気になるのは、最近の一連の『週刊新潮』の皇室報道である。以前から秋篠宮家には厳しい誌面作りをしてきているが、長女の眞子さんと小室圭の婚約延期以来、さらにエスカレートしてきているように思う。

特に秋篠宮紀子さんに対して厳しいと思うのは私だけだろうか。