「無礼者。ワシを軽く見るなよ」と恫喝

「お前は何様だ」
「無礼者。ワシを軽く見るなよ」
「お前の家にダンプを突っ込ませる」
「お前みたいな者がワシに歯向かうのか」
「関電とも関係を断ち切る。発電所を運営できなくしてやる」

関電が公表した報告書には関電の担当者への森山氏の罵倒、恫喝まがいの言葉も記録されている。多額の金品を幹部らにバラまいたという自負が強かったのだろう。森山氏の非常識な言動は留まるところを知らなかった。

報告書によると、森山氏は1969年に当時の町長に招聘される形で、京都府の職員から高浜町の職員となった。もともと高浜町の出身だった。

収入役などを経て1977年4月から1987年にかけて助役を務め、なかでも1985年に稼働した高浜原発の3号機と4号機の建設に関して誘致や地域のとりまとめに尽力し、周囲から「陰の町長」「Mさん」「モンスター」と呼ばれ、関電からも一目置かれ、関電は特別待遇をして誕生日会や年始会、花見などで森山氏を手厚く接待した。

貧困にあえぐ町を救ったのが原発マネーだった

関電の幹部たちはなぜ、森山氏一人に翻弄され続けたのだろうか。

日本の原発の多くは、これと言った産業のない海沿いの過疎地に建設されてきた。若狭湾沿岸の高浜原発も例外ではない。高浜町は1955年に4町村が合併して生まれたが、漁業のほかに目立つ産業はなく、住民は仕事を求めて町を離れ、人口は減り続けていた。

そんな貧困にあえぐ町を潤したのが、原発だった。高浜原発1号機の工事が1970年に着工し、1974年には運転を開始。その後も2号機、3号機、4号機と工事が完成して稼働し、高浜町はいわゆる「原発城下町」となり、町は原発マネーで潤っていった。

1969年に高浜町に入庁した森山氏は、原発の経済効果を目の当たりにして原発誘致に励み、原発マネーによって自らも権力と富を得ていった。

とりわけ2011年3月の東日本大震災による東京電力福島第一原発事故の後に各地の原発が次々と停止され、関電にとっても早期再稼働の実現が喫緊の課題となり、森山氏に頼ることが多くなった。