教育を「投資=見返りを期待」だと主張する親が失うもの

「高偏差値大学」の学歴があれば安泰という時代ではなくなりました。「俺より上の偏差値の大学にさえ行ってくれればいい。俺の遺伝子を継いでいるわけだし、妻も教育熱心だから、そこそこの偏差値の大学には行ってくれるだろう」なんて気楽に考えている方も多いかもしれません。しかし、「高学歴な親の学歴と同程度の学歴を子供が達成できるのは、全体の半分程度」という研究結果もあります。実は親世代の学歴を上回るのは難しいことなのです。

教育を「投資」だと考える限りにおいては、こうした前提で考えていいのかもしれません。しかし、子供は果たして投資対象なのでしょうか。

家庭が「評価の場」なら子供にとって家庭は「緊張の場」になる

教育を投資だと見なすことは、将来のリターンを期待するということです。投資は、コストとベネフィットを勘案する「費用対効果」で測ります。学力という物差しだけで測られて、結果を出せないと愛されない。そんな家庭で親からの過大な期待と教育熱を注ぎ込まれて、つぶれなかった子は運がよいですが、そうでない場合、精神的に追い詰められます。

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たとえつぶれなかったにしても「投資対象」である子供は、評価者である親といても楽しくありませんから、思春期とともに親を疎むようになっていきます。そのツケは将来、一緒にいても会話のない親子関係となってあらわれるでしょう。先に挙げた東大生たちの心の闇も、こうした家庭の中から生まれます。

もし、成績という軸だけで子供と接するのをやめたければ、明日から子供に教えるのではなく、子供の声に耳を傾けることです。叱る、褒めるのどちらでもなく、ただ「聞く」のがポイント。「あなたは今何をしているの、何をしたいの」と。マーサ・ファインマンというアメリカのジェンダー法学者は「子育てに父でなければできない役割というものはない」と断言しています。

子育ては母親がやっても父親がやっても同じ、すなわち子供に配慮し、子供と時間や経験を共にすることしかありません。その過程で初めて、親は、自分の子供がどういう生きもので何が好きで何が嫌いかがわかってきます。家庭が評価の場であれば、子供にとって家庭は緊張の場になりますが、評価のない場を共有することで、家庭が子供にとって安心できる場に変わっていきます。

実際に「投資」としての教育の実行役を担っているのは、父親の代行者としての母親ではないでしょうか。多くの家庭で「教育はお前に任せた」と夫が妻に子育てを丸投げにしています。その姿を子供はよく見ています。母親と子供が何かトラブルを抱えていても、何もしない、知ろうとすらしないという父親も多いでしょう。そんな父親が無理に教育に介入したら、監督者が2人に増えるだけ。子供にとってはさらなる受難です。

夫が家族ときちんと関係を築けているかを測るために、試しに「子供の友達の名前を何人言える?」「私の友達の名前を何人言える?」と聞いてみてください。妻の友達の名前となると、多くの夫はさっぱり言うことができないのではないかしら。

子供にとって両親は男女関係を学ぶうえでの大きなロールモデルです。夫が望むような成績を取らせなければと妻が焦ったり、不安がったりしている姿を見れば、子供の目にだって夫婦の力関係は明確になります。夫は妻の「上司」のようなもの、「男が上」なんだってね。軽んじられている母の姿を見れば、子供は母親を尊敬できなくなるでしょう。