何のために仕事をするのか。この仕事をどう進めていくのか。1つのことを考え続ける「想念」の重要性を筆者の経験を交えながら考える。

名経営者は普段何を考えているのか

もう四半世紀ほど前になるが、ある高名な企業経営者の方にインタビューしたことがある。そのとき聞いた2つの印象深い話を今でもおぼえている。

ひとつは、「製品や技術を自慢する経営者が経営する会社は、先が知れている」という話。会社の長期の成長存続を図るうえで、技術的優位は限られた時間のことにすぎない。生き馬の目を抜くような技術競争の時代にあって、技術上の優位などすぐになくなってしまうというわけだ。

経営者は、ゆめゆめ製品自慢や技術自慢に陥ることなく、広い視野でものごとを見ていかなくてはいけないという教えである。この教えは、ピーター・ドラッカーや、セオドア・レビットが言うところの、マーケティング近視眼を避けようという話と軌を一にする。

もうひとつの話は、「自分のアタマの中は、99.9%まで、会社のことが占めている。残る0.1%は家族のことだ」と言われたことである。で、99.9%まで会社のことを考えていると何が起こるかというと、「たまたますれ違う人が、自分にとってどれだけ大事な人かわかるようになる」と言われる。

この後者の話が今回のテーマだが、その話を聞いたときの私は、40歳になるやならずの頃。マーケティングやビジネスは、実証的な枠組みの下、仮説検証の繰り返しによる事実の積み上げに基づいて実施されるべきだと信じていた頃である。共感できるものではなく、不可思議さだけが残った。だが、大事な話である。あらためて考えてみよう。

プロダクトマネジャーあるいはブランドマネジャーのことを考えてみよう。自分が作り売っているブランドを、どうするか考える。「どのようなブランドに仕上げればよいのか」「誰にどのように売れば受け入れてもらえるのか」考える。一所懸命考えると、アタマの中はそうした想念でいっぱいになる。まさに、ブランドの想念が、自分のアタマの中の99.9%を占めてしまう。

アタマが想念でいっぱいになると、周囲の何を見ても、誰の話を聞いても、そのブランドに、つい関連づけて見たり聞いたりしてしまう。いわば、アタマの中からそのブランドに関わる想念があふれ出て、想念自体が、アタマの外のあれこれと自然に接触していくというふうである。

いわば、そのブランドについての想念は、私にとって生きて生活していくうえで、外との接点を任された、まさに「杖」の役目を果たす。その杖は私の分身となり、杖が触れるモノやコトがそのまま、自分の感覚となって自分の心の中に入り込む。

学者の研究活動においても、よく似たことが起こる。ある研究テーマで、アタマの中がいっぱいになる。いつも、どこにいても、そのテーマのことを考える。ご飯のときも、授業のときも、さらには寝るときも、そのことを考える。

昔、数学者の岡潔氏が、突然道ばたに座り込んで、数式を解き始めたというエピソードが紹介されていたことを思い出すが、多かれ少なかれ、研究想念がアタマの99.9%を占めた研究者には、そうしたことが起こる。