ポランニーが説く「対象へのすみ込み」とは

そうなってどうなるか。これまで読んだいろいろな文献にあった理論やデータ、あるいは日常で経験したちょっとしたエピソードが、つまりさまざまな思考素材が、その想念の磁力に引きつけられてやってくる。

その中には、これまで、自分のアタマでそれなりに位置づけされていた素材もあれば、これまでまったく自分のアタマの中で位置づけされていなかった素材もある。それら集まってきた素材群は、その想念の下において、それぞれにこれまでとは異なった位置づけがなされる。

これまで大事だと思われていた素材が、光沢を失い、アタマの中から消えかかっていた素材が新しい光の下、それまでとはまったく違った存在として蘇る。

それらの素材群は、みるみるうちに折り重なり結びつきあって、ひとつの形をなしてくる場合がある。いずれにしろ、自分が生きているのか、想念が生きているのかわからない状態。自分が自分でなくなる、言い換えると「ものに憑かれて、魂が奪われる」というのは、こういう状態だろうか。それは、いわば、自分とテーマとが一体化した状態である。

マイケル・ポランニーは、価値ある何かを創発するうえで、暗黙の認識の過程が不可欠であることを述べたが、そのさいのカギとなる手法として、「対象へのすみ込み」(dwelling in)の論理を唱えた。彼が言うところの「対象へのすみ込み」、それはまさに先に述べたことだ。

ブランドマネジャーはその対象たる「そのブランド」にすみ込み、学者はその対象たる「研究テーマ」にすみ込む。ブランドの想念やテーマの想念は、その人自身の分身の杖となる。

子供が砂場で遊びに我を忘れて夢中になっているのも、若者がゲームに夢中になっているのも、同じようにすみ込みであろう。そして、砂場で夢中で遊ぶその子供からうまく声を拾い上げることができれば、あるいはしっかり観察しておれば、きっと子供と砂場遊びとの関係において新しい何かが芽生えていることに、私たちは気づくはずである。