なぜ「谷根千エリア」に世界は注目するのか
スティーブンス氏は、今回の来日時に単体の店舗だけではなく、まち全体で店舗の価値を上げている谷根千エリア(谷中・根津・千駄木)を訪問した。谷根千エリアには昔から地域で愛されてきた店舗や行き交う人同士が親しげに挨拶する姿など、ノスタルジーを感じる景色がそのまま残っている。一方で、食べ歩きや古民家をリノベーションしたおしゃれな雑貨店も点在し、観光地としての楽しみも多い。
統一されたまちの雰囲気がありつつも、それぞれの店舗オーナーが情熱を持って営む店舗が点在している谷根千は、さながら自然に出来上がったテーマパークのようであり、スティーブンス氏はそれを「没入型の劇場」という言葉で表現した。
「店舗はメディアになる」とスティーブンス氏は著書『小売再生』のなかで語っているが、それは単に店舗がショールーム化するという話ではない。メディアのようにコンテンツが文脈をもって編集され、学びや気づきを得られる場所になっていくという意味である。そしてその体験はもはや買い物体験ではなく、劇場や映画館で上映される物語に自分自身が入り込んでいるかのような没入型の体験なのだ。
谷根千エリアの魅力のひとつに、「まちの案内人」としてのホテルの存在がある。それが谷中に位置する分散型ホテル・hanareだ。hanareは「まちに泊まる」というコンセプトのもと、通常であればホテルに併設されているレストランや浴場を谷中のまちに点在する施設で代替し、宿泊者がまちを回遊するような仕組みをつくっている。さらにチェックインの際にまちを訪れたきっかけや趣味をヒアリングし、それぞれのゲストにあった楽しみ方を案内する。
小さな店舗は、店舗面積も小さく取扱商品も少ないぶん、単体では没入型の体験を創出することが難しい。谷根千エリアは情熱にあふれた「個人の店」のネットワークによってその不利な点を克服し、まち全体で記憶に残る没入体験をつくることに成功している。
商品をつくって売ることの先にあるもの
体験の重要性は理解しつつも体験への投資がどれだけ売上につながるかがわからないために二の足を踏む企業も多いのではないだろうか。スティーブンス氏はこの点について、以下のように述べている。
「体験への投資が結果的に売上に結びつくことは様々な調査でも明らかになっています。しかしより重要なのは、コンバージョンの定義そのものが変わりつつあるということです。モノを売るために体験を用意するという発想から、顧客に感動的な体験を与えるという本質的なコンバージョンへ意識を切り替えなければなりません」
これまでの企業は、商品をつくって売ることが主な収益源だったために売ることをゴールに据え、見込み客をふるいにかけて購入にまで導くファネル型のマーケティング手法を是としてきた。しかし顧客自身が強力な発信力を持ち始めたいま、購入はむしろブランド体験におけるスタート地点である。購入は目的ではなくよい体験をつくるための手段であり、その前提を変えることなしに真に顧客を感動させる体験をつくることはできないのだ。