「日本のお寺は、単なる風景に過ぎなかった」が意味すること

では当時、伝統仏教教団は事件をどう見ていたかといえば、「ほぼ沈黙」に等しかった。修行中もオウム事件に関する話題に触れる者は、誰もいなかった。しかし、伝統仏教はオウム事件に無関係ではなかったし、今でも無責任ではいられない。

「日本のお寺は、単なる風景に過ぎなかった」

事件後、あるオウム信者が漏らした言葉である。オウムが勢力を拡大した1980年代、日本は経済的な豊かさを手に入れ、多くの若者は順風満帆であった。しかし、日本人の全員が全員、幸福感に浸っていたわけではない。貧困、格差、差別、暴力……。救済を求める人は少なからずいた。

そうした心の受け皿に、地域の寺がなれなかった。

地域の寺が心の受け皿にならずオウムに走った2万人

若者は、伝統的仏教では物足りない、と考え「本式の救済」を求めてオウムに走ったのである。事件当時のオウム信者の数は、2万人にも及んだ。

近年はオウムに関する話題も、仏教教団のなかではほとんど聞かれなくなった。死刑執行が1年前に終わり、ますます、過去を反省する機会が奪われている。今後、オウムに関する報道が大きくなされそうなのは、無期懲役になった受刑者(林郁夫、高橋克也ら6人)の仮出所のタイミングだろうか。

あえていえば、死刑執行の3日後、真宗大谷派(総本山、京都・東本願寺)が死刑執行の停止を求める声明を出した。真宗大谷派は死刑執行の度に、声明を出しているのでオウムの死刑執行の際に、特別に教団内で議論が交わされたわけではなさそうだ。その文面を紹介しよう。

京都の東本願寺(写真=iStock.com/Mantas Volungevicius)
「かけがえのないいのちを奪い、人間の尊厳を冒す犯罪行為は、絶対に許されません。私たち仏教者は、その犯罪行為が宗教による救済の名のもとに行われたことに衝撃と憤りを覚えます。同時に、教祖に無批判に追従した青年を思うとき、現代を生きる人々の悩みや苦しみにいかに応えていなかったかが知らされ、仏教者としての責任を痛感いたします」

とした上で、

「罪を犯した者のいのちを奪う死刑の執行は、根源的に罪悪を抱えた人間の闇を自己に問うことなく、他者を排除することで解決とみなす行為にほかなりません。そのことは決して真の解決とはならないでしょう。死刑制度は、罪を犯した人がその罪に向き合い償う機会そのものを奪います。また、私たちの社会が罪を犯した人の立ち直りを助けていく責任を放棄し、共に生きる世界をそこなうものであります」

としている。