孤独は「美徳」「自己責任」「我慢する」という日本固有の考え方

そうした空気感の中で、日本は世界に冠たる「孤独大国」と化している。100万人ともいわれる「ひきこもり」。ほとんど人に会わないという割合は日本の男性が世界で最も高い。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/RinoCdZ)

ユニセフの調査(2007年)によれば、「孤独感にさいなまれている」15歳の割合は29.8%。ほかの国々の3~5倍の水準と、先進国の中でもずばぬけて高かった。また、アメリカの財団が、昨年発表した日米英の孤独に関する調査では、「孤独である」と回答した人のうち、10年以上、孤独であるという割合が35%と、米(22%)、英(20%)より圧倒的に高かった。

このように、極めて大きな問題であるにもかかわらず、社会として抜本的な対策が進まない背景には、孤独は「美徳」「自己責任」「我慢するもの」という日本固有の考え方があると感じる。海外では人々が共有している「人は生物学的に『社会的動物』であり、つながりの中で生きていくもの」というコンセンサスもない。

古代から、人間が敵と戦い自らの生存を担保していくためには、何より、他者(仲間)との結びつきが必要だった。敵を倒すために共に戦う。食べ物を共に確保し、分け合う。そのつながりから放り出され、孤立することはすなわち「死」を意味していた。「孤独」は、のどの渇きや空腹、身体的な痛みと同じ脳の回路によって処理され、同等、もしくはそれ以上の苦痛をもたらす。

そのつらさを避けようと、水を飲んだり、食べ物を口にしたりするように、孤独な人も「苦痛」から逃れるために、自らつながりを求めるようになる。これが人を孤独から遠ざける、本能的なディフェンスメカニズム(防御機能)の基本的な仕組みだ。

肉体的に言えば、孤独は「心の飢え」なのである。孤独な人に「耐え続けろ」というのは、のどの渇いた人に「水を飲まずに我慢しろ」というぐらいに残酷なことでもある。社会性を持った動物は、身体的な痛みと孤立、どちらを選ぶのか、という選択を迫られたとき、身体的な痛みを選ぶのだという。独房監禁が最も残酷な拷問であることはよく知られている。

「loneliness」と「solitude」が混同されている

なぜ、孤独が日本ではポジティブに捉えられ、ともすると美化されやすいのか。

その要因として、寂しく不安な思いである「loneliness」と、一人の時間を楽しむ「solitude」とが混同され、「孤独」が「一人」「独立」「自立」という意味でのポジティブな意味合いで解釈されるという側面がある。

ロンリネスの孤独は「自立」でも「独立」でも「一人」でも「自由」の意味でもなく、物理的に独居や独身であるかも関係はない。頼る人も支えてくれる人もいない「孤児」のような不安な精神状況を指している。