いつかは「選ばれる側」にならないと生き残れない
しかし、このような「選んでいる人」の生き方には、じつは大きな問題が潜んでいます。時を経るにつれて、人は少しずつ「選べなくなっていく」からです。
たとえば、家庭を持てば、当然ながらそのなかで選べないことが出てくるでしょう。自分の人生をある程度制限される形で、子どもを育てたり、やがては親の介護をする必要にも迫られたりするからです。
また、自分自身が年を取っていきます。身体の自由がきかなくなったり、食事もあまり食べられなくなったり、海外にも気軽に行けなくなったりします。人はいつまでも、「選ぶだけの側」にはいられないのです。
つまり、人生が長くなるとは、後半生における「自分自身がリスクとなる状況」に備えなければいけないということ。選ぶ側であった自分が「選ばれる側」になったとき、「あなたは介護が必要なのにお金もない」などと切り捨てられる側にまわらないためには、リスクになった自分のことを受け入れて、選んでもらえるような場所を確保しておかなければなりません。
選ぶ側としていつまでも対象を取っ替え引っ替えするような自己啓発的な自己投資ではなく、「選ばれる側」として、切り捨てられない存在になれるような自己投資をすることが必要なのです。
そこで、先に述べた、家庭や会社だけではないもうひとつの場所、けっして完全ではない自分を選んでくれる場所(サードプレイス)や関係性を作ることが重要になります。その時々の変化を乗り越えて生まれる「事実性」の感覚こそが、たしかなサードプレイスを形成する基盤となるというのが、僕のかねての主張です。
持てる力や資源を合わせる「協働」とは
では、そんなサードプレイスや関係性を築くためには、なにをすればいいのでしょうか。
ここで、僕が日頃から言っている「協働」が鍵になります。
協働とは、多様な人びとが自分にできることを持ち寄って、お互いに協力しながらある課題の解決を目指すことでした。つまり、類まれな能力を持つわけでもないふつうの人たちが、それぞれの違いを持ち寄ってコラボレーションしたときに生まれるものの可能性に賭けるということ。
それは、「一緒にいるだけで心地良い」情緒的な関係とも、「最小限の労力で課題解決に役立つ人だけを集める」といった利害関係とも異なるあり方です。
ちなみに、協働概念の学術的なルーツは20世紀後半の組織論にあります。そこでは、上からの命令をただこなすだけの歯車のような集団ではなく、互いに自立した主体が対等な関係を維持しながら連携・協力するようなあり方が、これからの組織のあるべき姿と考えられてきました(※)。
※武田正則「参画型協働学習におけるファシリテーションに関する理論的背景」『教育情報研究』第27巻4号、17‐28頁
そして、人材が限られているいまの時代には、それぞれが持てる力や資源を持ち寄り、わけあって、みんなでサヴァイヴしていくというコンセプトがまさに最適ではないかと僕は考えています。