……少なくとも、こうした理想が脅かされないかぎり、生得的または後天的な障害を補助し矯正するために現在開発されている技術的な補助手段を利用して、自然に備わっている程度を超えて能力を向上させることが許されないということはありえないだろう。ましてや、それが人間の尊厳に反するなどということは、ありえないだろう。

優生学とトランスヒューマニズムの違いとは

このように考えていくと、「トランスヒューマニズム」を、自然や尊厳をもとに批判するのは容易ではないことが分かる。ビルンバッハーのように、条件付きではあるが、人間の自然本性の「人為的」な改良を許容することがどうにも不満だという人は、おそらく、どこかで「優生学」という忌まわしい考えを思い出しているのではないか。かく言う私も、その一人だ。

周知の通り、優生学は、文明社会や人間の発展のために、公権力の主導の下、遺伝子決定論を偏重する形で人間の遺伝形質の改善――優れた遺伝的資質の増大(積極的優生主義)と、劣ったそれの減少・消滅(消極的優性主義)――を図ろうとした思想運動を指す。

この思想運動では、公権力が「善(よ)き生とは何か」を決定する権限を持ち、生殖や生命の犠牲に関わる選択を「強制」する政策が実行された。

こうした優生学と、「トランスヒューマニズム」との相違とは何だろうか。指摘し得る点の一つは、前者とは異なり後者では、諸個人が多元的な価値の中から「自律/主体的」に自分の生(善き生)を選択し得るようになることが目指されていることである。

遺伝子改良は「胚の選別」とは違う

例えば、応用倫理学者のアラン・ブキャナンは、遺伝子改良に対する障碍(しょうがい)者からの批判、つまり、それは「平等の価値を持つ人格」として尊重される権利を障碍者から奪うものだという批判に対して、こう述べている。

遺伝子改良は、障碍を予防するために「障碍者の存在自体」を予防するものでなく、バリアフリー化と同じ目標である「機会の平等」を目指すものである。

要するに、この主張でむしろ問題とされるべきは、着床前診断をもとに、問題のある胚を除去し、問題のない胚だけを選ぶことの方であるはずだ、ということを意味している。胚の選別は、「障碍者の存在自体」を予防するものだといえるが、遺伝子改良は特定の障碍だけを予防するのであって、「障碍者の存在自体」を予防するものではないというわけだ。

このように言われると、なるほど一理はあると思えてくる。この記事で述べたことは、読者にはどう感じられただろうか。何とはなしの忌避感や嫌悪感を覚える人もいようが、それが頼りにならないことだけは間違いない。

「トランスヒューマニズム」という思想・運動は、それを批判する段階で、私たちが自明視している前提を大いに揺さぶり、再考する機会を与えるものだといえるだろう。

堀内 進之介(ほりうち・しんのすけ)
政治社会学者
1977年生まれ。博士(社会学)。首都大学東京客員研究員。現代位相研究所・首席研究員ほか。朝日カルチャーセンター講師。専門は、政治社会学・批判的社会理論。近著に『人工知能時代を<善く生きる>技術』(集英社新書)がある。