これらは、人工的・人為的であることは確かだが、その結果は、手を加えていないという意味で「自然な」状態や性質の範囲にとどまっている。人間のクローンを作る場合もそうだ。ヒトクローンは、人工的・人為的に作られるが、その結果生まれるクローンは、性質上は「自然な」人間と変わらない。だから、トランスヒューマニズムの熱心な擁護者の中には、ヒトクローンは「保守的だ」と言う者さえいるのだ。

デザイナーベビーが親の「道具」とされる風潮

このように言うと、次のように反論する人もいるだろう。誰か他人の、通常は親の目的のために、人間(子ども)を産出すること自体が問題なのだと。この種の批判は、他者の目的達成のための道具にされることに対する批判といえる。

けれども、この批判も突き詰めると、難しい問題にぶち当たる。なぜなら、すでに生まれている子どものために妹弟をもうけるため、夫婦以上の家族を持つため、跡継ぎを得るためなど、特定の目的のために子どもをもうけることは、すべからく批判に値することになるからだ。

そうした目的を一切持たずに、子どもをもうけることだけが正しいというのは、できるに任せることであり、それでは「家族計画」という言葉ですら問題含みだということになりかねない。それゆえ、ビルンバッハーによれば、人間の尊厳を毀損するといえるのは、目的が設定されること自体ではなく、生まれる子どもに具体的な「危険」を与える目的や手段に対してだけなのだ。

老化の制御や免疫系の強化、記憶力や認識能力の向上などについては、子どもの将来にとって具体的な「危険」になり得るかどうかを想像するのは、極端な事例を思い付かない限りは、容易なことではないだろう。

以上に付け加えるなら、遺伝子改良への批判のいくつかは、すでに私たちが行っている教育にも十分に当てはまるということだ。遺伝的な介入は不可逆的である(元に戻すことができない)とは最早言えないし、教育の結果は、不可逆な場合もある。

危険を避けるためなら、「人間」という種を超えてもよい

では、人間という種・類に関わる意味で「人間の尊厳」に抵触すると考えられる場合はどうだろう。これは、人間という種・類の状態や性質の範囲を「超える」という意味だ。「自然な」仕方では決して有さない状態や性質を獲得することが問題とされる。

けれども、ビルンバッハーによれば、この場合でも、それが問題となるのは、人間という種・類の状態や性質の範囲を「超える」ことによって、その人間(子ども)が、具体的な肉体的・精神的な危険に直面する場合だけだという。

「超える」ことが道徳的観点から問題となるのは、それが人工的・人為的で自然に反するからでも、人間の尊厳に反するからでもなく、危険を避けきれないという意味で技術的に力不足である、ということだけだというのである。

危険を避けられるようになるなら、人間という種・類の状態や性質の範囲を「超える」ことも、問題ではないというわけだ。

ビルンバッハーがこのように主張するのは、「人間とは、○○である」という本質を言い表す定義は、歴史的な経験や文化の影響下にあるのであって、その定義自体を正当化または批判の根拠にすることはできないと考えているからだ。ビルンバッハーはこう言っている。

人間の自然本性の「人為的」な改良は、少なくとも、それが自律、個性化、自己制御および社会的責任という理想と衝突しない限りは、許容されると見なさなければならない。