「自然に反する」の“自然”とはなにか

まず、遺伝的な改変は、自然に反するという批判を考えてみよう。私たちはしばしば、「人間も自然の一部である」という言い方をする。これには、自然の一部にしか過ぎない人間が自然をコントロールしようとするのは、身の程をわきまえない所業だという含意がある。

とりわけ遺伝子改良が進化に関する話題に及ぶときには、自然には人間の理解を超えた大いなる目的があるので、それを犯すことは許されないとの主張がある。このような意味での「自然に反する」という批判は、遺伝子改良の現実味が増すにつれ、声高に叫ばれるようになってきた。

けれども、(道徳)哲学の分野では、自然なるものを持ち出すのは、すでにあまりうまいやり方ではないと考える論者もいる。

アメリカの生物学者ギャレット・ハーディンは、「自然とは、人間が自分の意志で決めたことに対して責任を取らなくても済むように人間の心が作り出した空想の産物であって、自然の声は、人間の声である」という。

「自然には、人間の理解を超えた大いなる目的がある」というのは簡単だが、その目的が人間の理解を超えたものであるなら、その目的を人間が知ることは不可能である。また、それを仮に知り得たとしても、人間がその目的に同意すべき理由や、従わねばならない理由はよく分からない。

神学の視点からも遺伝子改良は「悪」ではない

自然であることは「正常である」ことを意味し、遺伝子改良は、自然には起こらないことを起こすという意味で「不自然」で、したがって「正常ではない」と言うなら、これはさらに問題含みだ。異性愛こそが自然の目的にかなうと考える一方、同性愛を不自然で、正常ではない愛の形だとみなすことが大いに問題であることを思い出せば、このことはすぐに分かる。

いや、そう思うのはお前が無神論者で神を信じていないからだ、と言う人もいるかもしれない。しかし、そう考えても結論はあまり変わらない。それはなぜか。

神学者のテッド・ピーターズは、次のように述べている

自然を創り出したのが神であり、神だけが唯一絶対だという考えは、遺伝子や生命それ自体すらも、神に対しては二次的な価値しか持たないことを意味する。
そして、神はこの世界を継続的に創造し続けており、被造物たる人間は、その世界創造の一部であるなら、神の意志に沿うものは産み出され、そうでなければ阻まれるはずである。

この言葉に照らすと、遺伝子改良の技術が産み出され、それによって新しい命が生まれたからには、この試みは神の意志に、つまり、自然の目的にかなっているということになる。

このように「自然に反する」という批判は、何かしら道徳的な意味合いを込めて言うにしても、神学的な関心から言うにしても、うまいやり方ではないのだ。