100人を超える高校生が「通学の足」として使っていた

赤字を垂れ流しながらも復旧をめざすのはなぜなのか。地震前、この列車は高校生の通学の足だったと話してくれたのは、高森駅駅員の内川聖司さんだ。

「列車が止まってしまって、高校生が部活を辞めないといけなくなったのが、かわいそうでした」

内川さんによると、地震前は、朝は6時台から夜は22時高森駅着の最終列車まで、1日に15往復する生活路線だった。

北端の終着駅立野駅はJR豊肥線と接続している。乗客はここで豊肥線に乗り換えて、熊本市のベッドタウン大津町や熊本市内まで運ばれて行く。その主要な利用客は高校生だった。

車窓からは阿蘇五岳が見渡せた。(撮影=三宅玲子)

100人を超える高校生が、このローカル線に乗って大津町や阿蘇市、あるいは熊本市内に通学していた。

熊本地震により列車が不通になると、主な通学手段はバスに替わったが、ルートによっては片道3時間ほどかかる。

バス通学に替わったことで、朝は5時台、帰りは熊本市内を3時台に出るバスに乗らなくてはならなくなった高校生がいる。部活をあきらめた生徒もいた。学校の寄宿舎や下宿など、親元を離れる生活を余儀なくされた生徒もいる。

名物の「トロッコ列車」。(写真提供=南阿蘇鉄道)

観光客に人気の「トロッコ列車」が生活路線を支えた

南阿蘇鉄道の役割は、生活路線だけではなかった。

熊本地震前年の運賃収入内訳を見ると、2016(平成27)年の1億980万円のうち、9割が定期券を使わないで利用した乗客によるもので、内訳をみると、4割が観光客に人気の「トロッコ列車」の売り上げだった。このローカル線は観光によって成り立っていたのである。

路線の始まりは1928(昭和3)年、旧国鉄が沿線の人々の足として開業した。1987(昭和61)年、国鉄の民営化に伴い、第3セクターの南阿蘇鉄道株式会社として再スタート。このときを境にトロッコ列車など、観光事業にも力を入れるようになった。