そのときから近藤をトップとする新選組をつくるまで、土方は謀略家としての側面をのぞかせる。結成当初は、芹沢鴨や新見錦たち水戸派と近藤らの寄合所帯だった新選組だが、土方は暗殺と粛清によって芹沢らを排除してしまう。この間新選組は芹沢の人脈を使って京都守護職・松平容保預かりという公式の立場を手に入れている。おそらく、多摩の地にあった頃は夢にも思わなかったはずだ。
私もTKCの草創期において、会社の今日あるを想像すらしていなかった。創業した1960年代の宇都宮市郊外は典型的な田舎で、社屋はプレハブに毛の生えたような建物。水田も多く、夜に窓を開けるとカエルの声がやかましい。つい都会で生き生きと働いているだろう同級生と自分を比べてしまうこともあった。
だからこそ、当面の経営危機を脱して、71年、東京に2番目の計算センターを開設でき、その翌年に上京したときのうれしさは格別だった。社宅のベランダに立ったとき、思わず胸がいっぱいになったことを昨日のことのように思い出す。新選組が幕府から正式に認められた際の、土方の感慨に通じるかもしれない。
小説を読み進めていくと、新選組とTKCの歩みがどこか似ている気がした。最初はわずかな人数の組織を命がけで育てていく。そして、土方が局長の近藤を補佐する姿と心情が、当時の父と自分との関係にだぶる。私の場合は親子であるが、彼らは血縁関係のない同門だから、土方の偉大さが身に染みてわかる。
新選組の組織を見ると、土方が希代のオルガナイザーでもあることが理解できる。近藤を局長に据え、自らは副長として沖田や永倉新八ら戦闘の隊長である助勤を掌握する。また、隊内の規律を維持するための監察という役を数人置いている。近代経営に置きかえれば、ラインとスタッフを明確に分けているわけだ。
むろん機構を整えただけでは組織は機能しない。そこに必要不可欠なのは理念であり、行動指針である。新選組の場合、理念に相当するのが「局中法度」、隊士の行動を律した指針は「軍中法度」にほかならない。とりわけ“士道”という言葉を冒頭に置き、五カ条からなる「局中法度」は峻厳そのものである。
第一条は「士道に背くまじきこと」。おそらく、土方の覚悟はこの一行に尽きるといっていい。それは徳川300年という歳月を経るうちに旗本直参といった将軍家を守るべき立場の者たちが、安逸のうちに忘れ去ってしまった“武士の本分”である。半面、土方にとっての士道は君主や忠義などを振りかざすのではなく「士道は士道だ!」という理屈を超えた心情だったろう。
それだけに「軍中法度」は苛酷だ。これは有名な池田屋事件(元治元〈1864〉年6月)の1カ月後に屯所の前に貼り出されたらしい。なかでも「組頭討死に及び候時、その組衆その場に於いて戦死を遂ぐべし」というのはすさまじい。だが、そのくらいでないと乱世の組織は持たない。土方は、現在でいうところのガバナンスも直観的に理解していたのだ。