篤姫(あつひめ)
1836~83年。薩摩藩島津家の分家に生まれ、島津本家当主、斉彬の養女となる。22歳で徳川家に嫁ぎ、江戸幕府13代将軍家定の御台所となる。家定の死により落飾し、「天璋院」と名乗る。
<strong>作家 鈴木由紀子</strong>●評伝『闇はわれを阻まず 山本覚馬伝』で第4回小学館ノンフィクション大賞優秀賞。ノンフィクションから歴史小説まで幅広い執筆活動のほか、放送や講演活動でも歴史ファンのすそ野を広げている。主な著書に『花に背いて 直江兼続とその妻』(幻冬舎文庫)、『大奥の奥』(新潮新書)、『最後の大奥 天璋院篤姫と和宮』、『直江兼続とお船』(ともに幻冬舎新書)がある。
作家 鈴木由紀子 
評伝『闇はわれを阻まず 山本覚馬伝』で第4回小学館ノンフィクション大賞優秀賞。ノンフィクションから歴史小説まで幅広い執筆活動のほか、放送や講演活動でも歴史ファンのすそ野を広げている。主な著書に『花に背いて 直江兼続とその妻』(幻冬舎文庫)、『大奥の奥』(新潮新書)、『最後の大奥 天璋院篤姫と和宮』、『直江兼続とお船』(ともに幻冬舎新書)がある。

歴史に名を残しているのはほとんどが男性で、女性はその陰に隠れています。しかし、それは記録として残っていないだけで、実は女性もその時代を担って歴史を動かしてきた。幕末から明治の動乱期を生きた篤姫の生涯を追うにつけ、そう思わずにはいられません。

例えば慶応4(1868)年の江戸城の無血開城は、勝海舟が西郷隆盛と会見し、西郷率いる倒幕軍が江戸城の総攻撃を取りやめたと、広く認識されています。

しかしその裏には、徳川将軍家の大御台所であった篤姫が西郷に嘆願書を送り、徳川家の存続を切々と訴えたという経緯があります。

篤姫は西郷が敬愛する島津斉彬(なりあきら)の養女で、一橋慶喜を将軍継嗣に擁してともにたたかった同志でもありました。その篤姫の嘆願が、西郷の心を動かしたであろうことは想像に難くありません。

開城後も篤姫は、1000人を超える大奥女中たちの身の振り方を世話するなど、重要な役割を果たしました。新政府との衝突を回避し、幕府の後始末を担ったのが勝海舟であり、篤姫であったと言っていいでしょう。

篤姫はもともと島津家の分家に生まれたのですが、薩摩藩主島津斉彬の養女となり、22歳で13代将軍家定の御台所として江戸城大奥に入ります。

外様である薩摩藩島津家の、しかもわずか1万5000石の分家筋から徳川将軍家の御台所に上りつめたのですから、まさにシンデレラストーリーです。