1970年の大阪万博も、絶好の実践場でした。当時大学4回生だった僕は20回近くそこに通い、外国人に声をかけては英語で会話をしていました。アポロ12号が持ち帰った「月の石」などのパビリオンそっちのけで、海外からの観光客にどんどん声をかけてひたすら英語で話す。

よく覚えているのが、カナダ人から「なぜ日本の家は屋根がくっついているんだ」って聞かれたこと。カナダって広いから、屋根が隣とくっつきそうな日本の狭い住環境が物珍しく見えたのではないでしょうか。そういう異文化目線の質問って面白いでしょう。そんなふうに楽しみながら、実際に英語でコミュニケーションをとってみることで会話力を伸ばしていきました。実際に外国人と話すことが一番勉強になるんですよね。

「翻訳はしましたけど自分でわかりません」

大学卒業後は、京都の機械メーカーに入社して貿易部に配属されました。話す・聞くが中心だったESS時代と打って変わり、最初の頃は特許や英文契約書の翻訳をしたり、海外から来る質問に英文タイプで回答したりしていました。

阪村機械製作所という世界的なねじメーカーの特許や契約書を翻訳する仕事は、紙1枚に一晩かかりましたね。翻訳しても、僕にねじの知識がないから、これで通じるのかどうかわからないんですよ。社長に「すみません、翻訳はしましたけど自分でわかりません」と言ったら、「あ、これで通じるから大丈夫」と言われほっとして。

2年目からはヨーロッパに駐在させていただき、通訳としてヨーロッパ中を回りました。ハンガリーで商談したときは、うちの技術者が日本語で喋るのを僕が英訳し、別の通訳がそれをドイツ語へ訳し、さらに別の通訳がハンガリー語に訳すという伝言ゲーム状態だったので、意思疎通には苦労しましたね。

でも一番苦労したのが、アメリカ出張での商談。そこでトラブルが起こり、めちゃくちゃ早口の英語でまくしたてられたんです。日本人が英語を学ぶときの速度とは全く違って、早いこと。「こんなに早く喋られたらわからん」と思いましたが、必死に聞き取り日本へ電話で報告しました。

英語を学んだから、電子辞書が売れた

そうやってESSや貿易部で鍛えた英語力は、ジャパネットたかたを創業した後も意外な局面で役立ちました。リンカーン演説が収録された電子辞書をテレビで紹介したとき、20歳のときに丸々暗記したその演説を復唱してみたんです。そうしたら瞬く間に電話が殺到し、30分の放映で1億円分の売り上げになりました。20歳のときに覚えたリンカーンの演説が、どうして60過ぎに役に立つと思いますか。何があるかわからない世界だから、やったことは必ずどこかで報われるんですよね。