上司に怒られ、しぶしぶと勉強

入社した1975年、その年に新設された国際部に配属になりました。びっくりしましたよ、英語なんて全然できなかったから。当時、海外からの電話はピッと独特の音が鳴るからわかるのですが、その音が鳴るたびにドキッとして、針のむしろ状態でした。

オリックスCEO 井上 亮氏

ある日、書類1ページ程度の英文を訳すのに手こずっていたら、部長から「井上君、君、英語は?」と聞かれて、「全然できません」と言ったら、「じゃあ、なんでうちに来たんだよ」と。「そんなの人事に聞いてくださいよ」って返しました(笑)。社内の英語試験でも、受けた40人のなかでたしか40番目でした。

もう国際部にいたくない。そう思っていた入社3年目、船舶関連事業を行うペルサス・シッピング(現オリックス・マリタイム)に出向することになりました。オリックスはもともとリース事業から始まった会社ですが、当時はリース物件をOA機器から船舶、航空機へと広げているときでした。

もう英語を使わなくて済む。そう思っていたら、なんのことはない、こっちのほうが英語を使うんです。船員の手配、売船の交渉、ぜんぶ英語でやらされました。というか、やらざるをえなかった。ブロークンイングリッシュでどうにかやりとりしていました。

そんななか、81年に香港の現地法人で欠員が出て、なぜか僕に白羽の矢が……。初の海外赴任は苦労の連続でした。

あるとき、お客さまのところに打ち合わせに行ったら、お客さまがいないんです。そしたら、うちの会社から連絡があって、「お客さまがこちらに来ていますよ」と。まともにアポをとることすらできませんでした。

それでも、英語が拙いことによる失敗はこれくらいでした。それは事前に手を打っていたから。「僕は英語ができないから、おかしいことがあったら遠慮せずに指摘してくれ」と皆に言っていたんです。だから周りも僕も慎重になる。弁護士と契約書について打ち合わせをすると、必ずあとからこういう話をしたよね?という確認のファックスが届きました。そのころはかえってミスが少なかったかもしれません。