大阪万博で、外国人に英語で声かけ
僕が英語に興味を持ったのは中学生のとき。10歳年上の叔父貴(叔父)の影響が大きいですね。大阪経済大学でESS(英語サークル)の部長を務め、英語が達者だった叔父貴は、僕の家に遊びに来たときによく英語の話をしてくれて、自然と英語に憧れを抱くようになりました。
よく覚えているエピソードが1つあります。僕が叔父貴に「『ペンの代わりに鉛筆を使う』と言いうのは英語で何と言うんですか」と聞いたら、「instead ofだよ」と。「すごい、instead ofって外国人に言えば通じるんだ」と衝撃的で。こんなふうに叔父貴に何でも聞いているうちに、英語への関心が高まっていきました。
大学は叔父貴と同じ大阪経済大学に進みました。特別な理由はなく、「国立は落ちてしまったし、すでに受かっている大経大は叔父貴も出た大学だからそこに進もうか」という気持ちでした。その大経大で、叔父貴と同じように僕もESSに入った。
戦後も20年の歳月が過ぎ、英語を話す文化とともに日本が経済発展していったという時代の空気もあってか、ESSは文化系で一番大きいサークルでした。説明会に行ったら、先輩が名前を呼ばれて「yes, sir」と答えているのがすごくかっこよく映り、すぐに入部しました。
1つずつ語彙をたくわえてから議論する
そこからは学校の勉強はろくにせず、ESSにのめりこむ毎日。活動の1つに、英語でのディスカッションがありました。その準備のために、英字新聞から時事的な英単語を抜き出して覚えていくわけですよ。
たとえば、当時の日本は日米安保条約を結ぶべきか破棄すべきかで盛り上がっていたので、英字新聞からそれにまつわる単語を覚えていきました。「破棄」は「abolish」、「条約」は「treaty」のように、1つずつ語彙をたくわえてから議論する。英字新聞でインプットして討論でアウトプットするという、今思うと理想的な方法で英語が勉強できる環境でした。
ESSでは年に1回、英語劇の披露もしました。ある年、私は「イノック・アーデン」という作品の主役を演じたんです。1時間くらいの劇なので台本は分厚かったですが、全部覚えました。ピクニックに行くときの「This soup is mighty good」というセリフとかは、今でも体に染みついています。