たとえば禁煙対策。多くの医療経済・公衆衛生研究では、禁煙は短期的には医療費を下げますが、長期的には余命延長により生涯医療費を増加させることが確認されています。
生活習慣病対策も同じです。「健康は個人の責任であり、個人の努力で医療費を減らすべき」という主張がありますが、これは、多くの生活習慣病には社会環境など多くの外的要因が複雑に関係している、という医学的知見を無視ないし軽視した暴論です。
実際、短期的には成功しても、長期的に医療費を減らすことに成功した予防医療の例は世界を見渡しても見当たりません。大半の予防医療は長期的にはむしろ医療費や介護費を増大させる可能性のほうが高く、予防医療に投入されるコストを考えればトータルの社会的費用は確実に増大します。
終末期医療をコストで語るな
特に看過できないのは、最近の終末期医療の議論です。「余命いくばくもない患者に無駄に医療が提供されている」「死ぬ前の数日で膨大な医療費を使った」などと個別事例を引き合いに出した議論があります。しかし、終末期の定義や、そこで提供されている緩和医療・ホスピスのような医療の意味を理解して議論しているのかかなり怪しいですし、そもそも「すべての死亡前1カ月」の医療費を総計しても医療費全体の3%にしかすぎません。
終末期医療の問題は生命観・倫理観に関わる難問です。医療費抑制というコストのために人の命を秤にかけるような議論をするのは危険です。この議論の行き着く先に何があるか、80年前のドイツで現実に起こった凄惨な歴史を想起してほしいと思います。
当たり前の話ですが、人間、最後は死にます。これだけ医療の進歩したこの国では、事故で即死でもしない限り死ぬ前には必ず一定の、それも決して短くない「要医療・要介護期間」があります。21世紀を前に私たちが介護保険を作った理由は、高齢社会の介護が「看取りの介護」から「生活を支える介護」「誰もが直面する介護」になったからです。ピンピンコロリは個人にとっては理想でしょうが、個別のエピソードと政策立案の基礎となるマクロの社会的事実は大いに異なるのです。
そもそも予防や健康寿命の伸長とは、一人一人のQOL向上のための施策です。文字通りプライスレスな価値を創造する取り組み、コストをかけてでも推進すべき施策なのであって、目先の医療費削減や健康サービスの産業化で議論するのは大きな心得違いです。
長寿社会の医療介護費対策には、発想の転換が必要です。「抑制」「削減」は無理でも「最適化」することはできます。ニーズを抑えるのではなく供給サイドの改革をする、限られた人的・物的資源で医療介護ニーズの変化に対応していく「提供体制改革」です。